【感想】サングラス五人もゐてはそれはもう 星野麥丘人
- 2015/11/26
- 08:01
サングラス五人もゐてはそれはもう 星野麥丘人
六人中五人バンダナ巻いている 榊陽子
【類とねじれ】
〈ひと〉が〈風景〉になるときってどんなときなんだろう、と考えたときに、それは〈ひと〉が〈類〉になったときなんじゃないかな、っておもうんですよ。
たとえば、ミレーに「落穂拾い」という有名な絵画があるけれど、ここでは〈個〉よりも農作業に従事する〈ひと・びと〉の〈類〉になっているわけですよね。だから、〈風景〉になる。
星野さんの句と榊さんの句もミレーの〈類〉に近いのかなっておもうんですよ。
「サングラス」をかけている人間が「五人もゐ」る〈類〉、「六人中五人バンダナ」という8割もの人間がバンダナを巻いている〈類〉。
語り手は、奇妙な〈類〉を風景として発見したわけです。
ちなみにおそらくなんですが、近代という時代は〈類型化〉の時代だったとおもうんですね。で、それはおそらく明治初期の文化や文学の思想を支えていた優生思想や進化論とも重なってくる。こういう〈類〉や〈型〉が優れている、こう進化していくという発想です。坪内逍遥も『小説神髄』という近代小説論を書くためにたしか〈分類〉をしていたはずです。
ただ星野さんの句も榊さんの句も、そうした必然的恣意的な類型化と違って、〈類〉がいったいどんな意味をもたらしているのかがよくわからない不気味さがいいとおもうんですよ。
複数人そろってしまったサングラスやバンダナ。なぜかそこにでくわしてしまっている語り手。でも語り手が《わざわざ》それを語っているからには語り手もそれに対して興味をもっている。語り手もその《類》のなかにもう巻き込まれてしまっているのかもしれない。
これらは冷たい《分類》ではないですよね。なにか、向こう側から、不可思議な生の流れとともにやってくる《類》です。
わたし(たち)は、いったいこれからどこに向かうのか。
だれにも、よく、わからない。
でもそこに目的論的発想を見出すのが近代でした。でもサングラスやバンダナのビンゴには、そして定型には目的論なんでないのだから。
だから、この〈類〉の意味は、なんだろう。いや、意味なんて、ない。
この意味は何なのだろう? この苦難と暴力と恐怖の循環の目的は? 目的はある筈だ。でないと宇宙は無意味であり、それは在り得ない。何のためにだ? ここに人類の大問題がある。現在もその回答は出ていないのだ。 シャーロック・ホームズ「ボール箱」
ミレー「種まくひと」(1850)。岩波書店の本のロゴとしても有名な絵ですよね。三菱一号美術館でミレー展をやっていたときにに観にいって思ったのが、ミレーは農作業に従事するひとをたくさん描いたけれど、結局それはなんだったかっていうと〈からだがよじれたひと・おりまげたひと・のびちぢみしているひと〉を絵にあらわしていくっていうことだったと思うんですよ。そういう身体のダイナミズムのなかに農作業っていつもあるわけですよね。それは宗教的な祈りや儀式の静の姿勢とは通底しつつもズレたものだったと思うんですよ。ちなみにマンガ界で有名な身体のねじれは荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』ですが、アニメ界で有名な身体のねじれといえば金田伊功の金田立ちです(たとえば『銀河旋風ブライガー』)。
六人中五人バンダナ巻いている 榊陽子
【類とねじれ】
〈ひと〉が〈風景〉になるときってどんなときなんだろう、と考えたときに、それは〈ひと〉が〈類〉になったときなんじゃないかな、っておもうんですよ。
たとえば、ミレーに「落穂拾い」という有名な絵画があるけれど、ここでは〈個〉よりも農作業に従事する〈ひと・びと〉の〈類〉になっているわけですよね。だから、〈風景〉になる。
星野さんの句と榊さんの句もミレーの〈類〉に近いのかなっておもうんですよ。
「サングラス」をかけている人間が「五人もゐ」る〈類〉、「六人中五人バンダナ」という8割もの人間がバンダナを巻いている〈類〉。
語り手は、奇妙な〈類〉を風景として発見したわけです。
ちなみにおそらくなんですが、近代という時代は〈類型化〉の時代だったとおもうんですね。で、それはおそらく明治初期の文化や文学の思想を支えていた優生思想や進化論とも重なってくる。こういう〈類〉や〈型〉が優れている、こう進化していくという発想です。坪内逍遥も『小説神髄』という近代小説論を書くためにたしか〈分類〉をしていたはずです。
ただ星野さんの句も榊さんの句も、そうした必然的恣意的な類型化と違って、〈類〉がいったいどんな意味をもたらしているのかがよくわからない不気味さがいいとおもうんですよ。
複数人そろってしまったサングラスやバンダナ。なぜかそこにでくわしてしまっている語り手。でも語り手が《わざわざ》それを語っているからには語り手もそれに対して興味をもっている。語り手もその《類》のなかにもう巻き込まれてしまっているのかもしれない。
これらは冷たい《分類》ではないですよね。なにか、向こう側から、不可思議な生の流れとともにやってくる《類》です。
わたし(たち)は、いったいこれからどこに向かうのか。
だれにも、よく、わからない。
でもそこに目的論的発想を見出すのが近代でした。でもサングラスやバンダナのビンゴには、そして定型には目的論なんでないのだから。
だから、この〈類〉の意味は、なんだろう。いや、意味なんて、ない。
この意味は何なのだろう? この苦難と暴力と恐怖の循環の目的は? 目的はある筈だ。でないと宇宙は無意味であり、それは在り得ない。何のためにだ? ここに人類の大問題がある。現在もその回答は出ていないのだ。 シャーロック・ホームズ「ボール箱」
ミレー「種まくひと」(1850)。岩波書店の本のロゴとしても有名な絵ですよね。三菱一号美術館でミレー展をやっていたときにに観にいって思ったのが、ミレーは農作業に従事するひとをたくさん描いたけれど、結局それはなんだったかっていうと〈からだがよじれたひと・おりまげたひと・のびちぢみしているひと〉を絵にあらわしていくっていうことだったと思うんですよ。そういう身体のダイナミズムのなかに農作業っていつもあるわけですよね。それは宗教的な祈りや儀式の静の姿勢とは通底しつつもズレたものだったと思うんですよ。ちなみにマンガ界で有名な身体のねじれは荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』ですが、アニメ界で有名な身体のねじれといえば金田伊功の金田立ちです(たとえば『銀河旋風ブライガー』)。
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