【感想】1001二人のふ10る0010い恐怖をかた101100り0 加藤治郎
- 2015/11/26
- 19:21
1001二人のふ10る0010い恐怖をかた101100り0 加藤治郎
3333399996112222511 兵頭全郎
【11776511】
数字の短歌や川柳ってありますよね。
で、数字なのでそのままだと意味がとれない、数字としてエンコードされたままの状態なので、デコード=解凍するひつようがあります。
ただそうやって解凍したときに、じゃあその〈意味〉そのものが、それが川柳なのか、短歌なのか、っていわれたときに、それはどうも違うようなきがするんですよね。
だって、たとえばその意味がそのまま言いたいのであれば、〈そのまま〉を書けばいいわけですよ。
でも、そうはしなかった。
一見してわからないようなかたちで書いてあるわけですよね。コード(枠組み)がわからなければ、ただの数字の羅列にしかみえないような。
で、大事かなとおもうのは、意味の解読ではないとおもうんですよ。もちろん、してもおもしろいとは思うけれども、だからといって解読することそのものがこれら短歌や川柳の本丸ではないようにおもう。
むしろ大事なのは、実は言語っていうのはどういう意味の枠組みやコードや手続きを踏むかによってまったく変わってしまうものである、という事態が短詩化されていることが大事なようにおもうんですよ。
ただの数字の羅列にしかみえないようなものが、あるコードによって整合すれば〈日本語〉になる。でもそれを知らないひと、アクセスできないひとにとってはそれはいつまでも数字の羅列にしかならない。
そのとき、言語っていうのは、実は階層化されたものなんだ、意味だって階層化されているんだということに気がつくはずです。
意味っていうのは知識の多寡よりも、階層や所属している場(磁場)の問題がある。
もちろん、川柳場や短歌場もあるのです。そのなかでは、ある意味が特権化され、ある意味はなおざりにされているでしょう。そういう象徴的暴力がつねに働いているのが場なのです。
場を可視化するために、エンコード/デコードの過程そのものを短歌化/川柳化すること。それが、数字の短歌や川柳なのではないかとおもうんです。
だから、正解をみつけることが問題なのではない。むしろ、意味に手続きや階層やレベルが発生してしまっていること、そしてそうした世界にもうわたしたちがすんでしまっていることが問題とされるべきようなきがするのです。
_〇_〇_〇_〇_〇_〇_〇_◎_〇_〇_〇_〇_ 柳本々々
オーソン・ウェルズ『市民ケーン』(1941)。ケーンが死ぬ際に残したことば「薔薇のつぼみ」の意味をめぐって物語が進んでいくんですが、オーソン・ウェルズの映画って構図がバロックみたいに肥大化しているというか、どれもものすごく極端な歪みかたをしているんですね。つまり、映画言語があらかじめ歪んでいるから、つねに映画のエンコード/デコードそのものがゆがんでいるのだということを観客は意識する。ウェルズの映画をみるということは、意味を見出すということではなく、意味がいかに歪んでいくかそのものを実況中継するメディアが映画なんだということにきがつくはずです。
3333399996112222511 兵頭全郎
【11776511】
数字の短歌や川柳ってありますよね。
で、数字なのでそのままだと意味がとれない、数字としてエンコードされたままの状態なので、デコード=解凍するひつようがあります。
ただそうやって解凍したときに、じゃあその〈意味〉そのものが、それが川柳なのか、短歌なのか、っていわれたときに、それはどうも違うようなきがするんですよね。
だって、たとえばその意味がそのまま言いたいのであれば、〈そのまま〉を書けばいいわけですよ。
でも、そうはしなかった。
一見してわからないようなかたちで書いてあるわけですよね。コード(枠組み)がわからなければ、ただの数字の羅列にしかみえないような。
で、大事かなとおもうのは、意味の解読ではないとおもうんですよ。もちろん、してもおもしろいとは思うけれども、だからといって解読することそのものがこれら短歌や川柳の本丸ではないようにおもう。
むしろ大事なのは、実は言語っていうのはどういう意味の枠組みやコードや手続きを踏むかによってまったく変わってしまうものである、という事態が短詩化されていることが大事なようにおもうんですよ。
ただの数字の羅列にしかみえないようなものが、あるコードによって整合すれば〈日本語〉になる。でもそれを知らないひと、アクセスできないひとにとってはそれはいつまでも数字の羅列にしかならない。
そのとき、言語っていうのは、実は階層化されたものなんだ、意味だって階層化されているんだということに気がつくはずです。
意味っていうのは知識の多寡よりも、階層や所属している場(磁場)の問題がある。
もちろん、川柳場や短歌場もあるのです。そのなかでは、ある意味が特権化され、ある意味はなおざりにされているでしょう。そういう象徴的暴力がつねに働いているのが場なのです。
場を可視化するために、エンコード/デコードの過程そのものを短歌化/川柳化すること。それが、数字の短歌や川柳なのではないかとおもうんです。
だから、正解をみつけることが問題なのではない。むしろ、意味に手続きや階層やレベルが発生してしまっていること、そしてそうした世界にもうわたしたちがすんでしまっていることが問題とされるべきようなきがするのです。
_〇_〇_〇_〇_〇_〇_〇_◎_〇_〇_〇_〇_ 柳本々々
オーソン・ウェルズ『市民ケーン』(1941)。ケーンが死ぬ際に残したことば「薔薇のつぼみ」の意味をめぐって物語が進んでいくんですが、オーソン・ウェルズの映画って構図がバロックみたいに肥大化しているというか、どれもものすごく極端な歪みかたをしているんですね。つまり、映画言語があらかじめ歪んでいるから、つねに映画のエンコード/デコードそのものがゆがんでいるのだということを観客は意識する。ウェルズの映画をみるということは、意味を見出すということではなく、意味がいかに歪んでいくかそのものを実況中継するメディアが映画なんだということにきがつくはずです。
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