【感想】文芸の力よスプーンが曲がる 芳賀博子
- 2014/07/02
- 01:16
文芸の力よスプーンが曲がる 芳賀博子
【スプーン曲げをする紀貫之】
紀貫之が『古今和歌集仮名序』で、「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」と、あらゆる力を脱臼させ変質させる〈歌〉の力なき力を説いていますが、この句の語り手も「文芸の力」に注目しています。
ただおもしろいのは、その「力」が「スプーンが曲がる」というやはり力を脱臼させ変質させるものではあるものの、「スプーン曲げ」というもしかしたらその「力」がトリックがある「まやかし」の力かもしれないということも想起させるということにあります(「スプー/ン」という定型の曲がり=句分けも「あやしさ」を想起させる仕掛けになっているようにおもいます)。
しかしもしかしたらそこがこの句の肝心かなめな点なのではないかとおもうんです。それこそがこの句のちからなのではないかと。
たとえば超能力としてのスプーン曲げは、超能力か否かが賭金となるので、真実/虚偽といった力の二項対立が問われますが、「文芸」という言語表象はそもそもが虚偽としての真実/真実としての虚偽という脱構築された基盤のうえに立っており、そのような超能力的二項対立をつきくずすような性質を本質的にもっているからです。
「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」るのも「スプーンが曲がる」のも、そうした二項対立がつきくずされた言語空間においては、真実であり、虚偽であり、想像的であり、リアルです。
文芸は、超能力ではないし超能力かどうかを問われるものではない。むしろそうした二項対立の廃墟から芽吹くメタな言語空間として「文芸」は機能しています。そして、だからこそ、能力を形式において超えられる〈超ー能力〉をもちます。つまり、文芸とはいつでも〈超ー〉として機能するものであり、超能力かどうかが問われる超能力とはちがうものです。
その意味で、この句は、超ー超能力なるものとして広がっている気がします。そうした意味で、すべての世界の紀貫之のスプーンを文芸によってこの句は曲げたおしていっているようにおもうのです。
金色のうぶ毛よワイルドでいこう 芳賀博子
【スプーン曲げをする紀貫之】
紀貫之が『古今和歌集仮名序』で、「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」と、あらゆる力を脱臼させ変質させる〈歌〉の力なき力を説いていますが、この句の語り手も「文芸の力」に注目しています。
ただおもしろいのは、その「力」が「スプーンが曲がる」というやはり力を脱臼させ変質させるものではあるものの、「スプーン曲げ」というもしかしたらその「力」がトリックがある「まやかし」の力かもしれないということも想起させるということにあります(「スプー/ン」という定型の曲がり=句分けも「あやしさ」を想起させる仕掛けになっているようにおもいます)。
しかしもしかしたらそこがこの句の肝心かなめな点なのではないかとおもうんです。それこそがこの句のちからなのではないかと。
たとえば超能力としてのスプーン曲げは、超能力か否かが賭金となるので、真実/虚偽といった力の二項対立が問われますが、「文芸」という言語表象はそもそもが虚偽としての真実/真実としての虚偽という脱構築された基盤のうえに立っており、そのような超能力的二項対立をつきくずすような性質を本質的にもっているからです。
「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」るのも「スプーンが曲がる」のも、そうした二項対立がつきくずされた言語空間においては、真実であり、虚偽であり、想像的であり、リアルです。
文芸は、超能力ではないし超能力かどうかを問われるものではない。むしろそうした二項対立の廃墟から芽吹くメタな言語空間として「文芸」は機能しています。そして、だからこそ、能力を形式において超えられる〈超ー能力〉をもちます。つまり、文芸とはいつでも〈超ー〉として機能するものであり、超能力かどうかが問われる超能力とはちがうものです。
その意味で、この句は、超ー超能力なるものとして広がっている気がします。そうした意味で、すべての世界の紀貫之のスプーンを文芸によってこの句は曲げたおしていっているようにおもうのです。
金色のうぶ毛よワイルドでいこう 芳賀博子
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