【感想】一九八〇年から今までが範囲の時間かくれんぼです 穂村弘
- 2015/12/01
- 10:10
一九八〇年から今までが範囲の時間かくれんぼです 穂村弘
【史上最大の隠れんぼ】
さいきんずっと引っ越し作業をしていてその作業をしながら引っ越しってちょっと大がかりな隠れんぼに似ているなっておもったんですよ。
ホーソーンに「ウェイクフィールド」ってすごくふしぎな短編があるんだけれども、ある日、夫がふらっと消えてしまうんですね。でも実は夫は何十年も近所に住んでいる。で、自分の家や妻をこっそりとじっと近所でみている。
そうして数十年たったらまたふらっと帰ってくる。
なんのためにこんなことをするのか、だれにもわからない。
わからないけれど、たぶん文学史上最大のかくれんぼだったのではないでしょうか。
浦島太郎もちょっと大規模なかくれんぼを感じさせるけれど、浦島太郎の場合、隠れようとはおもってないですよね。
ウェイクフィールドさんの場合、じぶんですうじゅうねんも隠れてるわけだから、ちょっとこわいです。自発的積極的なかくれんぼですよね。
〈かくれんぼ〉の主題っていうのは寺山修司ももっていたけれど、〈かくれんぼ〉っていちばんいったいなにあら隠れるかというとじつは〈じぶんじしん〉から隠れるってことなんですよね。
じぶんは他者がいなければ存在でいないことにきがついてしまう、それがかくれんぼだとおもうんですよ。
だから、見つからないと、だめなわけです。隠れたことにならないから。きえたこといなっちゃうから。
でも穂村さんの歌にあるように、問題は、〈設定〉なんです。巨大な範囲の設定にしてしまうと、〈消えた〉ことにはならないんですよ。みつかっていないだけで。
たとえば、だれかをうしなったりわかれたりする。でも設定しだいでは〈かくれんぼ〉にもなる。
となると、〈かくれんぼ〉で大切なのは「範囲」という〈設定〉になってくるのかなっておもいます。
そうすると隠れん坊って非常に構造的な遊戯だということがわかってきます。どの範囲でだれから隠れてどんなふうにいつみつけられたいのか。
それって、〈歴史〉なんかでもそうで、知のベースという設定しだいではみつかってくるものが変わってくる。そうすると歴史的事象もまた解釈がかわってくるわけですよね。知の編制はあるとき切断されてすっと移行する場合もあるから(認識論的切断)。
だから、〈鬼〉はだれなのか、という問題がいつもある。
だれが〈鬼〉になるのか。
〈鬼〉でいられるのか。
歴史のなかで繰り返される、もういいかいとまあだだよ。
サニーレタス錆びたり会いたくなったり 河西志帆
ルーカス『スター・ウォーズ エピソード6 ジェダイの帰還』(1983)。さいきん、横浜のそごう美術館にスター・ウォーズ展をみにいってそのなかで天野喜孝さんの描いたダースベイダーをみていて思ったんですが、スター・ウォーズってたぶん〈父親の壮大なかくれんぼ〉の話なんじゃないかなっておもうんですよ。だいたいがみんなかくれんぼしているわけです。ダースベイダーとか、皇帝とか、オビワンケノービとか、ヨーダとか、全歴史を知ってるR2D2なんかも。みんな、〈すまし〉てるわけですよね。だから、銀河でくりひろげられた壮大なかくれんぼなんじゃないかなともおもうわけですよ。となると、スター・ウォーズってすごく原型的な話かもしれないってことですよね。いないいないばあやもういいかいをギャラクシーコーティングした話なのではないか。
【史上最大の隠れんぼ】
さいきんずっと引っ越し作業をしていてその作業をしながら引っ越しってちょっと大がかりな隠れんぼに似ているなっておもったんですよ。
ホーソーンに「ウェイクフィールド」ってすごくふしぎな短編があるんだけれども、ある日、夫がふらっと消えてしまうんですね。でも実は夫は何十年も近所に住んでいる。で、自分の家や妻をこっそりとじっと近所でみている。
そうして数十年たったらまたふらっと帰ってくる。
なんのためにこんなことをするのか、だれにもわからない。
わからないけれど、たぶん文学史上最大のかくれんぼだったのではないでしょうか。
浦島太郎もちょっと大規模なかくれんぼを感じさせるけれど、浦島太郎の場合、隠れようとはおもってないですよね。
ウェイクフィールドさんの場合、じぶんですうじゅうねんも隠れてるわけだから、ちょっとこわいです。自発的積極的なかくれんぼですよね。
〈かくれんぼ〉の主題っていうのは寺山修司ももっていたけれど、〈かくれんぼ〉っていちばんいったいなにあら隠れるかというとじつは〈じぶんじしん〉から隠れるってことなんですよね。
じぶんは他者がいなければ存在でいないことにきがついてしまう、それがかくれんぼだとおもうんですよ。
だから、見つからないと、だめなわけです。隠れたことにならないから。きえたこといなっちゃうから。
でも穂村さんの歌にあるように、問題は、〈設定〉なんです。巨大な範囲の設定にしてしまうと、〈消えた〉ことにはならないんですよ。みつかっていないだけで。
たとえば、だれかをうしなったりわかれたりする。でも設定しだいでは〈かくれんぼ〉にもなる。
となると、〈かくれんぼ〉で大切なのは「範囲」という〈設定〉になってくるのかなっておもいます。
そうすると隠れん坊って非常に構造的な遊戯だということがわかってきます。どの範囲でだれから隠れてどんなふうにいつみつけられたいのか。
それって、〈歴史〉なんかでもそうで、知のベースという設定しだいではみつかってくるものが変わってくる。そうすると歴史的事象もまた解釈がかわってくるわけですよね。知の編制はあるとき切断されてすっと移行する場合もあるから(認識論的切断)。
だから、〈鬼〉はだれなのか、という問題がいつもある。
だれが〈鬼〉になるのか。
〈鬼〉でいられるのか。
歴史のなかで繰り返される、もういいかいとまあだだよ。
サニーレタス錆びたり会いたくなったり 河西志帆
ルーカス『スター・ウォーズ エピソード6 ジェダイの帰還』(1983)。さいきん、横浜のそごう美術館にスター・ウォーズ展をみにいってそのなかで天野喜孝さんの描いたダースベイダーをみていて思ったんですが、スター・ウォーズってたぶん〈父親の壮大なかくれんぼ〉の話なんじゃないかなっておもうんですよ。だいたいがみんなかくれんぼしているわけです。ダースベイダーとか、皇帝とか、オビワンケノービとか、ヨーダとか、全歴史を知ってるR2D2なんかも。みんな、〈すまし〉てるわけですよね。だから、銀河でくりひろげられた壮大なかくれんぼなんじゃないかなともおもうわけですよ。となると、スター・ウォーズってすごく原型的な話かもしれないってことですよね。いないいないばあやもういいかいをギャラクシーコーティングした話なのではないか。
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