【お知らせ】はらだ有彩「12月のヤバい女の子/喪失とヤバい女の子」『アパートメント』レビュー
- 2015/12/02
- 07:38
わたしたちは毎日なにかを得たふりをして、うしなう。でも、それでも、もっともっとうしなうためにひとは引っ越しもするし、列車にとびのるし、さよならのためにもっともっとおおきく手をふる。
ウェブマガジン『アパートメント』の毎月始めに更新されるはらだ有彩(はりー)さんの「日本のヤバい女の子」。
連載第7回目の今月のはりーさんの文章は「http://apartment-home.net/日本のヤバい女の子/yabai-201512/" title="友達とヤバい女の子">喪失とヤバい女の子」という民話「月の夜ざらし」と夫/妻の喪失をめぐるエッセイです。
さいきん引っ越しをしていておもったんですが、ひとってなにをやってもなにかをうしなわざるをえないんだな、それをひきうけていくしかないんだな、っていうふうにおもったんですよ。
まいにち、じぶんでもきがつかずに、いろんなものをうしなっている。と、おもってるいじょうに、うしなっている。
西原天気さんの俳句にこんな句があります。
数ページの哲学あした来るソファー 西原天気
わたしはこの句のなかで、「哲学」という思索を「あした来るソファー」という希望がふっとばしているようにもおもうんですよね。
「数ページの哲学」のように思索したり思いこんだりしているときに、でも「あした来るソファー」のことをふいにおもいだし、かんがえる。そうすると、「哲学」は「あした来るソファー」なんかにはかなわなくなってしまう。
ソファーがこの部屋にフィットするのかどうかわからない不安もあるし、あたらしい居心地のよさへの期待と希望も、ある。
ソファーだから、わたし以外のだれかに対してもこの空間はきっとひらかれていくはずです。
わたしたちは、日々、哲学をうしなっても、あした来るソファーのために、せいかつをつづけていくことが、できる。
希望、ではないかもしれない。
でも、生活になるんですよ。
これからの。
以下は、わたしが今回『アパートメント』のレビュー欄に書いたレビューです。
※ ※
何かの古い雑誌か新聞で、ある男の物語が実話として語られていたのを筆者は記憶している。それは妻の前から長いあいだ姿を消していた男──かりにウェイクフィールドと呼んでおこう──の話であった。
夫は旅行に出ると偽って、自宅の隣の通りに間借りし、妻にも友人にも知られることなく、またこうした自己追放の理由などこれっぽちもなしに、二十年以上の年月をそこで過ごしたのである。その間(かん)、男は毎日己の家を目にし、ウェイクフィールド夫人のよるべない姿を頻繁に見かけもした。
そして、結婚生活の至福にかくも長き空白をはさんだ挙げ句に、彼の死が確定したものと見なされ、財産も整理されて、その名も記憶の外に追いやられ、妻ももうずっと前に人生の秋の寡婦(やもめ)暮らしを受け容れていたところへ、ある夕暮れどき、あたかも一日出かけていただけという風情で、男は静かに自宅玄関の敷居をまたぎ、終生愛情深い夫となった。人はみな、自分はそんな狂気に走らぬとわかっていても、誰か他人がそうしても不思議はないと感じるのである。
ナサニエル・ホーソーン「ウェイクフィールド」
『グレート・ギャツビー』の中で、ずっと気になっているセリフがあった。それは、ギャツビーが、デイジーは夫であるトムよりは自分のことをずっと愛していたはずだと言い、そのあとに「ともあれ、それは私事に過ぎない」と語り手のニックに言うそのセリフだ。聞いたニックも、この言葉をどう解釈すればいいのかと言っている。
岩松了『マレーヒルの幻影』
*
ホーソーンに「ウェイクフィールド」というふしぎな短篇があるんですよ。なんの理由もなく、ほんとうになにひとつ理由がなく、ある日、ふらっと夫が消えるんですよ。で、もう、それっきり、消えてしまう。
ところがです、夫は何十年も妻の近所に隠れて住んでいる。でも妻にはそれを教えない。そうしてぼうっとじぶんの家や妻のことを隠れてみている。
そうして数十年もたったら、TSUTAYAに返却をしにいってきたんだよ、という感じで、ふらっと帰ってくる。だれもがもう「あのひとは死んだ」を通り過ぎて、忘れちゃったくらいのそのときに。
でも、理由は、わからない。なんにもわからないんです。
だから、すごくこわい。ふしぎでもあるし、どこかすっとぼけてもいる。
いったいなにが始まったんです、とさえ、おもう。よく、わからない。消えたウェイクフィールドさん自身もほんとうはよくわかっていなかったのかもしれない。じぶんがなにをしたかったのか。どうしてじぶんの存在をけしたのか。
だれにも、わからない。
はりーさんの今回の《喪失》をめぐるお話を読んでこのふかしぎなウェイクフィールドの短篇を思いだしたんですよ。
はりーさんが書かれていることだけれども、《いま・ここではない人生》への気づきっていうことに実は《喪失》の根っこがあるようにおもうんですよね。
これは「私事に過ぎない」んですが、いま、引っ越しをしていてですね、そのときに、いったいわたしはどこにいるんだろう、っておもったんです。引っ越しをしているあいだって住所があいまいなわけです。アイデンティティとしての住処も引っ越し過程で崩壊している。段ボールだらけです。どこにもいない。どこにもいないこの〈わたし〉は誰なんだろうと。わたしもあっという間にひとりのウェイクフィールド氏になる可能性はいつだってもっているわけです。
大事なことは、《いま・ここ》っていうのは実はそんなに確たるものがないってことなんじゃないかとおもうんです。確たるものにするためには、《いま・ここ》をつぎの《いま・ここ》へつなぎとめていかなければならない。はりーさんが紹介した民話のように「月の夜ざらし」というスペシャルなしゅんかんに身をさらしては、ゆだねては、着込んではだめなんですよ。スペシャルなしゅんかんは《いま・ここ》と拮抗してしまうから。もうひとつのスペシャルな《いま・ここ》がみえてしまうから。でももしかしたらそれまでの《いま・ここ》だって特別なものだったかもしれない。それに気がついたとき、それに気がつけなかったとき、わたしやあなたはいったい《なに》をうしなうのか。
わたしはいまからっぽの部屋でこれを書いているんですが、あらためてじぶんがそこにいたからっぽの空間をみわたして、おどろきました。
なにがこの部屋をみたしていたんだろう、って。
でもたぶんこのからっぽの部屋をずっとみたしていたのは、わたしじしんの《いま・ここ》だったんだとおもうんです。そうしてその《いま・ここ》が、もう次の段階へうつるときがきたからこそ、わたしはいま《からっぽ》を感じているんだって。レイモンド・カーヴァーもよく言っていますよね。「それはもう時がやってきたということなのだ」。
はりーさんが最後に書いていたように、いつもわたしたちには《いま・ここ》という銀河にむかう列車に飛び乗るかどうかの選択がせまられています。《いま・ここ》には無数のおびただしい運行と時刻表があるのです。
乗っても、乗らなくても、どちらでも、いい。乗ってもいいし、乗らなくてもいい。どちらにしても、わたしたちは毎日なにかを得たふりをして、うしなうのです。
でも、それでも、もっともっとうしなうためにひとは引っ越しもするし、列車にとびのるし、さよならのためにもっともっとおおきく手をふる。
でも。
ともあれ、です。
ともあれ、それは私事に過ぎない。
*
野原の中で
僕のぶんだけ
野原が欠けている。
いつだって
そうなんだ。
どこにいても
僕はその欠けた部分。
僕らはみんな動くための
理由を持っているけど
僕が動くのは
物事を崩さぬため。
マーク・ストランド「物事を崩さぬために」
ウェブマガジン『アパートメント』の毎月始めに更新されるはらだ有彩(はりー)さんの「日本のヤバい女の子」。
連載第7回目の今月のはりーさんの文章は「http://apartment-home.net/日本のヤバい女の子/yabai-201512/" title="友達とヤバい女の子">喪失とヤバい女の子」という民話「月の夜ざらし」と夫/妻の喪失をめぐるエッセイです。
さいきん引っ越しをしていておもったんですが、ひとってなにをやってもなにかをうしなわざるをえないんだな、それをひきうけていくしかないんだな、っていうふうにおもったんですよ。
まいにち、じぶんでもきがつかずに、いろんなものをうしなっている。と、おもってるいじょうに、うしなっている。
西原天気さんの俳句にこんな句があります。
数ページの哲学あした来るソファー 西原天気
わたしはこの句のなかで、「哲学」という思索を「あした来るソファー」という希望がふっとばしているようにもおもうんですよね。
「数ページの哲学」のように思索したり思いこんだりしているときに、でも「あした来るソファー」のことをふいにおもいだし、かんがえる。そうすると、「哲学」は「あした来るソファー」なんかにはかなわなくなってしまう。
ソファーがこの部屋にフィットするのかどうかわからない不安もあるし、あたらしい居心地のよさへの期待と希望も、ある。
ソファーだから、わたし以外のだれかに対してもこの空間はきっとひらかれていくはずです。
わたしたちは、日々、哲学をうしなっても、あした来るソファーのために、せいかつをつづけていくことが、できる。
希望、ではないかもしれない。
でも、生活になるんですよ。
これからの。
以下は、わたしが今回『アパートメント』のレビュー欄に書いたレビューです。
※ ※
何かの古い雑誌か新聞で、ある男の物語が実話として語られていたのを筆者は記憶している。それは妻の前から長いあいだ姿を消していた男──かりにウェイクフィールドと呼んでおこう──の話であった。
夫は旅行に出ると偽って、自宅の隣の通りに間借りし、妻にも友人にも知られることなく、またこうした自己追放の理由などこれっぽちもなしに、二十年以上の年月をそこで過ごしたのである。その間(かん)、男は毎日己の家を目にし、ウェイクフィールド夫人のよるべない姿を頻繁に見かけもした。
そして、結婚生活の至福にかくも長き空白をはさんだ挙げ句に、彼の死が確定したものと見なされ、財産も整理されて、その名も記憶の外に追いやられ、妻ももうずっと前に人生の秋の寡婦(やもめ)暮らしを受け容れていたところへ、ある夕暮れどき、あたかも一日出かけていただけという風情で、男は静かに自宅玄関の敷居をまたぎ、終生愛情深い夫となった。人はみな、自分はそんな狂気に走らぬとわかっていても、誰か他人がそうしても不思議はないと感じるのである。
ナサニエル・ホーソーン「ウェイクフィールド」
『グレート・ギャツビー』の中で、ずっと気になっているセリフがあった。それは、ギャツビーが、デイジーは夫であるトムよりは自分のことをずっと愛していたはずだと言い、そのあとに「ともあれ、それは私事に過ぎない」と語り手のニックに言うそのセリフだ。聞いたニックも、この言葉をどう解釈すればいいのかと言っている。
岩松了『マレーヒルの幻影』
*
ホーソーンに「ウェイクフィールド」というふしぎな短篇があるんですよ。なんの理由もなく、ほんとうになにひとつ理由がなく、ある日、ふらっと夫が消えるんですよ。で、もう、それっきり、消えてしまう。
ところがです、夫は何十年も妻の近所に隠れて住んでいる。でも妻にはそれを教えない。そうしてぼうっとじぶんの家や妻のことを隠れてみている。
そうして数十年もたったら、TSUTAYAに返却をしにいってきたんだよ、という感じで、ふらっと帰ってくる。だれもがもう「あのひとは死んだ」を通り過ぎて、忘れちゃったくらいのそのときに。
でも、理由は、わからない。なんにもわからないんです。
だから、すごくこわい。ふしぎでもあるし、どこかすっとぼけてもいる。
いったいなにが始まったんです、とさえ、おもう。よく、わからない。消えたウェイクフィールドさん自身もほんとうはよくわかっていなかったのかもしれない。じぶんがなにをしたかったのか。どうしてじぶんの存在をけしたのか。
だれにも、わからない。
はりーさんの今回の《喪失》をめぐるお話を読んでこのふかしぎなウェイクフィールドの短篇を思いだしたんですよ。
はりーさんが書かれていることだけれども、《いま・ここではない人生》への気づきっていうことに実は《喪失》の根っこがあるようにおもうんですよね。
これは「私事に過ぎない」んですが、いま、引っ越しをしていてですね、そのときに、いったいわたしはどこにいるんだろう、っておもったんです。引っ越しをしているあいだって住所があいまいなわけです。アイデンティティとしての住処も引っ越し過程で崩壊している。段ボールだらけです。どこにもいない。どこにもいないこの〈わたし〉は誰なんだろうと。わたしもあっという間にひとりのウェイクフィールド氏になる可能性はいつだってもっているわけです。
大事なことは、《いま・ここ》っていうのは実はそんなに確たるものがないってことなんじゃないかとおもうんです。確たるものにするためには、《いま・ここ》をつぎの《いま・ここ》へつなぎとめていかなければならない。はりーさんが紹介した民話のように「月の夜ざらし」というスペシャルなしゅんかんに身をさらしては、ゆだねては、着込んではだめなんですよ。スペシャルなしゅんかんは《いま・ここ》と拮抗してしまうから。もうひとつのスペシャルな《いま・ここ》がみえてしまうから。でももしかしたらそれまでの《いま・ここ》だって特別なものだったかもしれない。それに気がついたとき、それに気がつけなかったとき、わたしやあなたはいったい《なに》をうしなうのか。
わたしはいまからっぽの部屋でこれを書いているんですが、あらためてじぶんがそこにいたからっぽの空間をみわたして、おどろきました。
なにがこの部屋をみたしていたんだろう、って。
でもたぶんこのからっぽの部屋をずっとみたしていたのは、わたしじしんの《いま・ここ》だったんだとおもうんです。そうしてその《いま・ここ》が、もう次の段階へうつるときがきたからこそ、わたしはいま《からっぽ》を感じているんだって。レイモンド・カーヴァーもよく言っていますよね。「それはもう時がやってきたということなのだ」。
はりーさんが最後に書いていたように、いつもわたしたちには《いま・ここ》という銀河にむかう列車に飛び乗るかどうかの選択がせまられています。《いま・ここ》には無数のおびただしい運行と時刻表があるのです。
乗っても、乗らなくても、どちらでも、いい。乗ってもいいし、乗らなくてもいい。どちらにしても、わたしたちは毎日なにかを得たふりをして、うしなうのです。
でも、それでも、もっともっとうしなうためにひとは引っ越しもするし、列車にとびのるし、さよならのためにもっともっとおおきく手をふる。
でも。
ともあれ、です。
ともあれ、それは私事に過ぎない。
*
野原の中で
僕のぶんだけ
野原が欠けている。
いつだって
そうなんだ。
どこにいても
僕はその欠けた部分。
僕らはみんな動くための
理由を持っているけど
僕が動くのは
物事を崩さぬため。
マーク・ストランド「物事を崩さぬために」
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