【ふしぎな川柳 第三十八夜】「また」は力強い―中村せつこ―
- 2015/12/08
- 00:38
消えそうになっているのにまたおはぎ 中村せつこ
丸い指、薄いまぶた、太いもも、これが私だ。あきらめてもあきらめても、生きていける。自分は、すごい。 山崎ナオコーラ『指先からソーダ』
【マーガレット、アゲイン、アゲイン、アゲイン】
〈また〉っていう〈反復〉って力強いものなんだっておもうんですよ、生にとっては。
〈反復〉とか〈リフレイン〉の力強さって逆説的ではあるけれど、〈反復できない〉ことにあるんですね。
ひとってどんなふうに〈おなじ〉反復をしようとしても、〈できない〉んですよ。
でも、だからこそ、〈意味〉が生じる。
だから、せつこさんの句の「またおはぎ」の「おはぎ」は、これまでに・ありえなかったような・おなじ・ちがう〈おはぎ〉なんですよ。
もちろんそれは〈繰り返されたおはぎ〉です。すき、なんでしょう、おはぎが。でも、繰り返されたからこそ、そこには別の意味が、別のおはぎが生じてくる。n1とn2のおはぎはおなじようで、ちがう。
だから、秘密をいえば、ほんとうに繰り返したかったら、〈べつのかたち〉でやることだとおもうんです。ちがったかたちでそれをやる。すると、繰り返しになる。
おなじかたちでやれば、それは意味が重なることで、必然的に意味が生じてしまう。
だからこの「またおはぎ」の意味のちからづよさによって、語り手はこれからの生をいきていく。
そこに《も》、なにか、生きていく意味が、かいてあるから。
びやうびやうとめくれかへつてうらがへるここにもなにかかいてあるね まぬがれてみちお
市川崑『悪魔の手鞠唄』(1977)。市川崑映画ってスターシステムというか、手塚治虫のマンガみたいに、おなじ役者をちがうキャラクターをまわしながらずっと使い続けることでその役者の身体に市川サーガを通した身体性が生まれてくるんですね。石坂浩二もそうだし、たとえば、金田一シリーズでヒントを与えるキャラクターでもある三木のり平もそうです。役者の身体は、三重としてある。役者本来の身体、その一回的物語内の身体、そしてサーガ(神話体系)を通した身体。そういう幾重にも反復された身体を役者はもっている。だから身体っていうのは映画においていつもどこにあるんだろうっておもうんですよ。だれが・なにが所有しているんだろうって。
丸い指、薄いまぶた、太いもも、これが私だ。あきらめてもあきらめても、生きていける。自分は、すごい。 山崎ナオコーラ『指先からソーダ』
【マーガレット、アゲイン、アゲイン、アゲイン】
〈また〉っていう〈反復〉って力強いものなんだっておもうんですよ、生にとっては。
〈反復〉とか〈リフレイン〉の力強さって逆説的ではあるけれど、〈反復できない〉ことにあるんですね。
ひとってどんなふうに〈おなじ〉反復をしようとしても、〈できない〉んですよ。
でも、だからこそ、〈意味〉が生じる。
だから、せつこさんの句の「またおはぎ」の「おはぎ」は、これまでに・ありえなかったような・おなじ・ちがう〈おはぎ〉なんですよ。
もちろんそれは〈繰り返されたおはぎ〉です。すき、なんでしょう、おはぎが。でも、繰り返されたからこそ、そこには別の意味が、別のおはぎが生じてくる。n1とn2のおはぎはおなじようで、ちがう。
だから、秘密をいえば、ほんとうに繰り返したかったら、〈べつのかたち〉でやることだとおもうんです。ちがったかたちでそれをやる。すると、繰り返しになる。
おなじかたちでやれば、それは意味が重なることで、必然的に意味が生じてしまう。
だからこの「またおはぎ」の意味のちからづよさによって、語り手はこれからの生をいきていく。
そこに《も》、なにか、生きていく意味が、かいてあるから。
びやうびやうとめくれかへつてうらがへるここにもなにかかいてあるね まぬがれてみちお
市川崑『悪魔の手鞠唄』(1977)。市川崑映画ってスターシステムというか、手塚治虫のマンガみたいに、おなじ役者をちがうキャラクターをまわしながらずっと使い続けることでその役者の身体に市川サーガを通した身体性が生まれてくるんですね。石坂浩二もそうだし、たとえば、金田一シリーズでヒントを与えるキャラクターでもある三木のり平もそうです。役者の身体は、三重としてある。役者本来の身体、その一回的物語内の身体、そしてサーガ(神話体系)を通した身体。そういう幾重にも反復された身体を役者はもっている。だから身体っていうのは映画においていつもどこにあるんだろうっておもうんですよ。だれが・なにが所有しているんだろうって。
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