【感想】目覚めるといつも私がいて遺憾 池田澄子
- 2015/12/08
- 08:00
目覚めるといつも私がいて遺憾 池田澄子
目がさめきってみると、自分は、やっぱり、いつもの自分だ。ちっともかわっていない。──また、一日がはじまるんだ。夜までつづいて、また、あくる日がやってきて、また、やってきて、いつまでたっても、きまりきったヘムレンのくらしが、毎日毎日つづいていくんだ。
ヘムレンさんは、たのしいゆめを見るまで、じっと待っていた。いつまで待っても、たのしいゆめなんて、見られっこないんですけれどね。
みなにすかれるヘムレンになってみようと思ったり、みなにきらわれる、かわいそうなヘムレンになってみようと思ってもみた。でも、だめだった。どんなに苦心してみてもやっぱり自分は自分だった。いままでどおり、いくらいっしょうけんめいになってみても、さっぱり、いいめにあえないヘムレンだった。
ヤンソン『ムーミン谷の十一月』
時間を増やす機械はあるんです。それはね、眠りなんです。ゆっくり眠ると起きたあとの時間が濃くなって鮮やかになり、べつの展開ができるようになる。つまり、時間の質の問題なんです。時間のもっている意味が新しい質になる。眠りは時間を増やす。質によって増やすわけです。つまり、自分のなかにある夢を、新しく起きている人生のなかで働くようにさせる力を、眠りはもっている。
『鶴見俊輔語録1』
【眠りは、アップデート】
池田さんの句は結語の「遺憾」がすごく効いていると思うんですが、語り手にとっては「遺憾」なんだけれども、でもこの「遺憾」が語り手にとっては〈新しい気づき〉になっているんではないかとおもうんですよね。
語り手は、ねむって、めがさめて、またじぶんがやってきていることにきがついた、ヘムレンみたいに。
だから、そこには、のんべんだらりとした流れるじぶんではなくて、眠りや目覚めによって分節された対自意識としての〈じぶん〉がいるわけです。
「いつも」といいながらも、〈切断〉された〈私〉が。
実は、「いつもの私」という発話は、わたしに対自してる点で、〈切断されたわたし〉だとおもうんですね。
だからそのとき「いつも」からは逸れている。
ヘムレンさんだって、そうです。
めざめて、毒虫にもなっていなかった。いつものじぶんだった。また、ヘムレンだった。
でもヘムレンさんは、そういう対自意識はもっている。だから、次のわたしまで、あとちょっとなんですよ。
眠りは更新であり、アップデートの時間になる。
ゆめからさめて毒虫にならなくても、ねむるたびに、ひとは時間や私の質が変わっている。
忘れてはいけないことを忘れ、思い出すひつようのないものを思い出す。
それは〈遺憾〉としての希望になるはずです。
月夜の水を猫が来て飲む私も飲もう 種田山頭火
ルイ・マル『鬼火』(1963)。蛭子能収さんが眠くなる映画はいい映画だといっていたんですが、私もそうおもうんですよ。で、史上最大に眠くなる映画が『鬼火』だとおもうんですよね。これは、もう、寝ます。みんな、寝るとおもうんですよ。サティの「ジムノペディ」や「グノシェンヌ」がえんえんと流れているせいもあるとおもうんですが、これはねむるための映画だと思っていいとおもうんですよ。私はいつも始まって5分くらいでねむりにつくので何回もみているんですがまだストーリーがわからないんですね。ただ最後にいつも起きるので主人公が自殺することは知ってるんですよ。まあなんでしぬのかはわからないんだけれども。遺憾、だともおもわない。
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