【ふしぎな川柳 第四十夜】さかさまの顔-野沢省悟-
- 2015/12/09
- 06:56
君が代が陰毛の実存に揺れる 野沢省悟
バフチンは、ラブレーの世界には初めから終わりまで、下層に向かう動き、地の奥深く、人間の肉体の深奥へ向かう動きが浸透している、と語る。尻は〈さかさまの顔〉であり〈裏返しされた顔〉なのである。 阿部軍治『バフチンを読む』
【川柳は〈だれ〉が詠むのか】
ソクーロフの映画『太陽』は、昭和天皇のヒロヒトを描いたものなんですが、この映画のなかでイッセー尾形ふんするヒロヒトが和歌を詠むシーンがあります。
で、この映画をさいきん観直していてちょっとおもったのが、もし天皇が川柳を詠むならどういった川柳になるのか、ということです。言い換えれば、なぜ天皇は川柳を詠まないのか。
表現形式っていうのは実はそれほど自由なジャンルなのではなくて、そこを出入りするひとが思いのほか決まっているということがあるのではないかと思ったりするんですね。
或いはそのジャンルを出入りしているうちに、そうした主体に錬成されていく。川柳的主体とか、短歌的主体に。
で、省悟さんの句に「陰毛の実存」とあるように、川柳っていうのは、いわば〈下からのちから〉が機能する場所なのではないかとおもうんですね。
バフチンが祝祭や両義的価値は下腹部から機能するといっていたようにおもうんですが、価値の転覆が〈下〉から機能するのが川柳という場所なんじゃないか。
だからじぶんも転覆してしまう可能性がある。じぶんに対する〈下〉からの〈むほん〉というか、じぶんじしんも〈陰毛の実存〉に〈揺れ〉てしまったりする。
だからそういう〈揺れ〉てもいい〈ひと〉だけを川柳というジャンルはえらぶのではないか、あるいは、ゆれたいひとびとが川柳というジャンルを出入りするのではないか。
いいかえるなら、ジャンルがどんな〈裸〉になるかを要請してくるように、おもうのです。詩的裸や和歌的裸や短歌的裸や川柳的裸や俳句的裸を。
すばらしい詩をつくらうと窓あけてシャツも下着もいま脱ぎすてる 石川信夫
ソクーロフ『太陽』(2005)。この映画は〈上〉から〈下〉への視線のベクトルが基調になっている映画だとおもうんです。顕微鏡を上から下にのぞき込むヒロヒトや、奇妙な飛来する魚の爆撃にあう東京のヒロヒトの夢もやっぱり仰ぐかたちではなく街を見おろすかたちで描かれています。最後に〈人間宣言〉を録音したヒロヒト(イッセー尾形)は皇后(桃井かおり)にひざまくらをしてもらうのですが、ここにいたって上から下へのベクトルが、ここで反転し、ヒロヒトが上からみおろされるかたちになります。スタッフロールが流れるラストでは、バッハの無伴奏チェロと玉音放送が混じり合った放送が流れるなか、雲からみおろされる都市という〈神〉のような上から下への(雲によって遮蔽された)視点でおわります。〈太陽〉とは、誰の視点のことだったのか。
バフチンは、ラブレーの世界には初めから終わりまで、下層に向かう動き、地の奥深く、人間の肉体の深奥へ向かう動きが浸透している、と語る。尻は〈さかさまの顔〉であり〈裏返しされた顔〉なのである。 阿部軍治『バフチンを読む』
【川柳は〈だれ〉が詠むのか】
ソクーロフの映画『太陽』は、昭和天皇のヒロヒトを描いたものなんですが、この映画のなかでイッセー尾形ふんするヒロヒトが和歌を詠むシーンがあります。
で、この映画をさいきん観直していてちょっとおもったのが、もし天皇が川柳を詠むならどういった川柳になるのか、ということです。言い換えれば、なぜ天皇は川柳を詠まないのか。
表現形式っていうのは実はそれほど自由なジャンルなのではなくて、そこを出入りするひとが思いのほか決まっているということがあるのではないかと思ったりするんですね。
或いはそのジャンルを出入りしているうちに、そうした主体に錬成されていく。川柳的主体とか、短歌的主体に。
で、省悟さんの句に「陰毛の実存」とあるように、川柳っていうのは、いわば〈下からのちから〉が機能する場所なのではないかとおもうんですね。
バフチンが祝祭や両義的価値は下腹部から機能するといっていたようにおもうんですが、価値の転覆が〈下〉から機能するのが川柳という場所なんじゃないか。
だからじぶんも転覆してしまう可能性がある。じぶんに対する〈下〉からの〈むほん〉というか、じぶんじしんも〈陰毛の実存〉に〈揺れ〉てしまったりする。
だからそういう〈揺れ〉てもいい〈ひと〉だけを川柳というジャンルはえらぶのではないか、あるいは、ゆれたいひとびとが川柳というジャンルを出入りするのではないか。
いいかえるなら、ジャンルがどんな〈裸〉になるかを要請してくるように、おもうのです。詩的裸や和歌的裸や短歌的裸や川柳的裸や俳句的裸を。
すばらしい詩をつくらうと窓あけてシャツも下着もいま脱ぎすてる 石川信夫
ソクーロフ『太陽』(2005)。この映画は〈上〉から〈下〉への視線のベクトルが基調になっている映画だとおもうんです。顕微鏡を上から下にのぞき込むヒロヒトや、奇妙な飛来する魚の爆撃にあう東京のヒロヒトの夢もやっぱり仰ぐかたちではなく街を見おろすかたちで描かれています。最後に〈人間宣言〉を録音したヒロヒト(イッセー尾形)は皇后(桃井かおり)にひざまくらをしてもらうのですが、ここにいたって上から下へのベクトルが、ここで反転し、ヒロヒトが上からみおろされるかたちになります。スタッフロールが流れるラストでは、バッハの無伴奏チェロと玉音放送が混じり合った放送が流れるなか、雲からみおろされる都市という〈神〉のような上から下への(雲によって遮蔽された)視点でおわります。〈太陽〉とは、誰の視点のことだったのか。
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