【ふしぎな川柳 第四十一夜】飛び出そう-山口亜都子-
- 2015/12/09
- 12:55
入口は出口に変わる飛び出そう 山口亜都子
つまり、いろいろな決心をするという傾向がなくて、むしろ、だれがだれに向かって糞(くそ)を投げつけているのか、どっちの影に隠れたほうが得なのかもわからないままに、頭を下げて、糞のなかへ突っ込んでしまう傾向があった。 ベケット『モロイ』
【川柳は迷宮に親しい】
前からちょっと気になっていたことなんですが、川柳って迷宮や迷路や錯綜や錯雑や交錯が好きらしいんですね。
なんでかはよくわからないんですが、たぶん、ベクトルの混線が好きなんじゃないか、もしくは川柳の認識のチャンネルはもともろ混線している状態がデフォルトなのかもしれませんよね。
なかはられいこさんの句に、
回線はつながりました 夜空です なかはられいこ
という句がありますが、もともと川柳というジャンル自体が混線を基本にしているからこそ、回線がつながる句がきわだった意味をもってくるのではないかともおもうのです。
つまりです。めいめいに混線した状況のなかでつながる回線をさがしている。川柳は。
亜都子さんの句なら、入口=出口という回線をみつけたわけです。だから飛び出した。その飛び出しの解放感=開放感がなかはらさんの句なら、「夜空です」になっている。川柳は夜空をみつけた。出口=入口としての。
客観的に外からみることで回線をつないだこんな句もあります。
巨大迷路ついに一人も出てこない 石川重尾
コーエン兄弟『バートン・フィンク』(1991)。この映画にとくに顕著なんですが、コーエン兄弟のひとつのコンセプトって、〈愛するには隣人は遠すぎる〉ということだと思うんですよ。たとえば隣の部屋に住んでる隣人が殺人鬼だったりする。でもその殺人鬼はじぶんになぜかとても親しくしてくれる。にんげんはわけがわからない、とおもう。いとしいし、かなしいともおもう。それがコーエン兄弟の映画なんだとおもうんですよね。だから、ずっと、混線してるしショートしてる。でもときどきぐっと回線がつながる。だから、こんなふうに、おもえる。人生は、素晴らしい。
つまり、いろいろな決心をするという傾向がなくて、むしろ、だれがだれに向かって糞(くそ)を投げつけているのか、どっちの影に隠れたほうが得なのかもわからないままに、頭を下げて、糞のなかへ突っ込んでしまう傾向があった。 ベケット『モロイ』
【川柳は迷宮に親しい】
前からちょっと気になっていたことなんですが、川柳って迷宮や迷路や錯綜や錯雑や交錯が好きらしいんですね。
なんでかはよくわからないんですが、たぶん、ベクトルの混線が好きなんじゃないか、もしくは川柳の認識のチャンネルはもともろ混線している状態がデフォルトなのかもしれませんよね。
なかはられいこさんの句に、
回線はつながりました 夜空です なかはられいこ
という句がありますが、もともと川柳というジャンル自体が混線を基本にしているからこそ、回線がつながる句がきわだった意味をもってくるのではないかともおもうのです。
つまりです。めいめいに混線した状況のなかでつながる回線をさがしている。川柳は。
亜都子さんの句なら、入口=出口という回線をみつけたわけです。だから飛び出した。その飛び出しの解放感=開放感がなかはらさんの句なら、「夜空です」になっている。川柳は夜空をみつけた。出口=入口としての。
客観的に外からみることで回線をつないだこんな句もあります。
巨大迷路ついに一人も出てこない 石川重尾
コーエン兄弟『バートン・フィンク』(1991)。この映画にとくに顕著なんですが、コーエン兄弟のひとつのコンセプトって、〈愛するには隣人は遠すぎる〉ということだと思うんですよ。たとえば隣の部屋に住んでる隣人が殺人鬼だったりする。でもその殺人鬼はじぶんになぜかとても親しくしてくれる。にんげんはわけがわからない、とおもう。いとしいし、かなしいともおもう。それがコーエン兄弟の映画なんだとおもうんですよね。だから、ずっと、混線してるしショートしてる。でもときどきぐっと回線がつながる。だから、こんなふうに、おもえる。人生は、素晴らしい。
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