【ふしぎな川柳 第四十三夜】裂かれる肉-加藤久子-
- 2015/12/10
- 12:00
住宅情報肉は静かに裂かれていて 加藤久子
ということは、身体が自分自身との自己同一性で保たれていたものが、肉片という〈もの〉と化してしまったことによって、〈自分〉と名付けられていた個別具体性が剥離し、〈自分〉を〈解体〉してしまったと理解することも可能です。 堺利彦『川柳解体新書』
またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。 「ヨハネによる福音書」『聖書』
【いきなりの肉】
堺利彦さんが川柳における〈肉〉について解説されていて、で、〈肉〉ってたしかにとてもふしぎなんですね。
身体、っていうのはどこかコントロールできることを感じさせるものがありますよね。使い勝手もあるし、安心感もある。所有感もあるし、帰属性もある。
でも、〈肉〉ってどこにも行き場がないようにおもうんですよね。肉には、顔もありませんよね。手も足もない。口もない。象徴的な《顔》がないんですよ。
だから問題はひとは〈肉〉を所有できるのかどうか、じぶんのものにできるのかどうかってことなんじゃないかとおもうんです。
食べる、ことはできる。でもそれを所有することはできない。肉は、つねに肉じしんが肉を所有している。肉、というものが〈誰か〉や〈なにか〉の〈ボディ〉の一部である限り、そうならざるをえないようにおもうんですよ。
久子さんの句に、「住宅情報」とあるけれど、「住宅情報」も〈わたし〉が所有化できない〈ボディ〉の一部としてあるようにおもうんです。いろんな住宅情報があるけれど、それは所有化される前のものとして列挙されている。だれのものでもない。
「住宅情報」と「肉」にはまだ誰にも所有化されていないぶきみさが、ある。
それが「裂かれて」いる。だとしたら、「肉」じしんも「肉」を所有できていない。
もう、だれのものでもない、肉。
明るいうちに隠しておいた鹿の肉 樋口由紀子
キェシロフスキ『殺人に関する短いフィルム』(1989)。キェシロフスキ映画のなかではとても濃厚にしつこく〈死〉や〈性〉が描かれるんですが、その〈しつこさ〉によってあらわれてくるのがどこにもゆきつくことのない〈肉〉としての身体のように思うんです。どんなにモラルや観念を問いつめていっても、〈肉〉だけがいつも置き去りにされていく。その〈肉〉を映画はいつもみつめているし、みつめざるをえない。映画のなかでいつも現象しているのが、〈肉〉なのはないかとおもうですよ。
ということは、身体が自分自身との自己同一性で保たれていたものが、肉片という〈もの〉と化してしまったことによって、〈自分〉と名付けられていた個別具体性が剥離し、〈自分〉を〈解体〉してしまったと理解することも可能です。 堺利彦『川柳解体新書』
またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」と言って互いに議論し合った。 「ヨハネによる福音書」『聖書』
【いきなりの肉】
堺利彦さんが川柳における〈肉〉について解説されていて、で、〈肉〉ってたしかにとてもふしぎなんですね。
身体、っていうのはどこかコントロールできることを感じさせるものがありますよね。使い勝手もあるし、安心感もある。所有感もあるし、帰属性もある。
でも、〈肉〉ってどこにも行き場がないようにおもうんですよね。肉には、顔もありませんよね。手も足もない。口もない。象徴的な《顔》がないんですよ。
だから問題はひとは〈肉〉を所有できるのかどうか、じぶんのものにできるのかどうかってことなんじゃないかとおもうんです。
食べる、ことはできる。でもそれを所有することはできない。肉は、つねに肉じしんが肉を所有している。肉、というものが〈誰か〉や〈なにか〉の〈ボディ〉の一部である限り、そうならざるをえないようにおもうんですよ。
久子さんの句に、「住宅情報」とあるけれど、「住宅情報」も〈わたし〉が所有化できない〈ボディ〉の一部としてあるようにおもうんです。いろんな住宅情報があるけれど、それは所有化される前のものとして列挙されている。だれのものでもない。
「住宅情報」と「肉」にはまだ誰にも所有化されていないぶきみさが、ある。
それが「裂かれて」いる。だとしたら、「肉」じしんも「肉」を所有できていない。
もう、だれのものでもない、肉。
明るいうちに隠しておいた鹿の肉 樋口由紀子
キェシロフスキ『殺人に関する短いフィルム』(1989)。キェシロフスキ映画のなかではとても濃厚にしつこく〈死〉や〈性〉が描かれるんですが、その〈しつこさ〉によってあらわれてくるのがどこにもゆきつくことのない〈肉〉としての身体のように思うんです。どんなにモラルや観念を問いつめていっても、〈肉〉だけがいつも置き去りにされていく。その〈肉〉を映画はいつもみつめているし、みつめざるをえない。映画のなかでいつも現象しているのが、〈肉〉なのはないかとおもうですよ。
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