【ふしぎな川柳 第四十四夜】近すぎる-佐藤みさ子-
- 2015/12/10
- 12:30
顔を近づけ過ぎてだれだかわからない 佐藤みさ子
【遠近の発明】
短詩と遠近ってとても関わりが深いとおもっていて、たとえば斎藤茂吉の有名な、
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 斎藤茂吉
も、〈遠近〉の歌だというふうにいうことができるんじゃないかとおもうんですよ。
もしくは、石川啄木の、
いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指の間より落つ 石川啄木
これら歌のなかでは近くなったり・遠くなったりすることによって主体のうつろいがでているんじゃないかとおもうんですね。〈意味〉を表現するというよりは、近くなったり遠くなったりしていることを歌にしているようにおもうんですよ。
別のいいかたをすれば、短詩においては、ただ近くなる・ただ遠くなることが〈詩〉になるんじゃないかとおもうんですね。
みさ子さんの句のように、「顔を近づけ過ぎて」みることが詩的出来事になっていく。「わからない」という意味の分節が溶解する領域にはいっていく。
そうすると短詩でおこなわれているのは、めいめいが立ってしまっていた場所からの〈遠近の発見〉ということになるのではないかとも、おもうんです。
わたしの遠さと近さを短詩をとおして見いだしていく。そういう〈距離の発明〉。
遠景の便座を凝視して夫婦 千島鉄男
小津安二郎『彼岸花』(1958)。小津安二郎映画をみていていつも思うのは〈こわい〉とか〈ぶきみ〉〈不安〉といった感情なんですが、なんでそう思うのかなって考えたときに、どうも小津安二郎映画では遠近が歪なんじゃないかとおもうんですよ。というか、小津安二郎映画には遠近が、ない。極端な〈近さ〉しかないんですよ。しかも間違った〈近さ〉が。だから、とても、こわい。押し売りのひととかがよく遠近がゆがんだままこちらにぐっとくるけれど、そのこわさが、ある。ちなみに押井守のアニメ映画『機動警察パトレイバー2』も遠近がゆがんだ映画です。
【遠近の発明】
短詩と遠近ってとても関わりが深いとおもっていて、たとえば斎藤茂吉の有名な、
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 斎藤茂吉
も、〈遠近〉の歌だというふうにいうことができるんじゃないかとおもうんですよ。
もしくは、石川啄木の、
いのちなき砂のかなしさよさらさらと握れば指の間より落つ 石川啄木
これら歌のなかでは近くなったり・遠くなったりすることによって主体のうつろいがでているんじゃないかとおもうんですね。〈意味〉を表現するというよりは、近くなったり遠くなったりしていることを歌にしているようにおもうんですよ。
別のいいかたをすれば、短詩においては、ただ近くなる・ただ遠くなることが〈詩〉になるんじゃないかとおもうんですね。
みさ子さんの句のように、「顔を近づけ過ぎて」みることが詩的出来事になっていく。「わからない」という意味の分節が溶解する領域にはいっていく。
そうすると短詩でおこなわれているのは、めいめいが立ってしまっていた場所からの〈遠近の発見〉ということになるのではないかとも、おもうんです。
わたしの遠さと近さを短詩をとおして見いだしていく。そういう〈距離の発明〉。
遠景の便座を凝視して夫婦 千島鉄男
小津安二郎『彼岸花』(1958)。小津安二郎映画をみていていつも思うのは〈こわい〉とか〈ぶきみ〉〈不安〉といった感情なんですが、なんでそう思うのかなって考えたときに、どうも小津安二郎映画では遠近が歪なんじゃないかとおもうんですよ。というか、小津安二郎映画には遠近が、ない。極端な〈近さ〉しかないんですよ。しかも間違った〈近さ〉が。だから、とても、こわい。押し売りのひととかがよく遠近がゆがんだままこちらにぐっとくるけれど、そのこわさが、ある。ちなみに押井守のアニメ映画『機動警察パトレイバー2』も遠近がゆがんだ映画です。
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