【感想】プールを泳ぐ短歌/俳句-背泳ぎしながら、あ、プテラノドン-
- 2014/07/05
- 03:46
【エロスとタナトスをかきわける平泳ぎ】
プールとしての短詩型文学のなかにすこし潜ってみようとしてみるのが今回の文章の趣旨です。
まず、プールって実は〈強制的休み時間〉に象徴されるように、体育座りをして〈み〉ているものだと思うんですね。泳ぐよりも、水面を、水底を、みているのがプールなのではないか。
受取人不明の光でいっぱいの冬のプールを見ていた誰か 千葉聡
このうたがおもしろいのは、そうしたみられるプールの水面にひかりがゆらめいている。でもそれが誰のものでもない、所有されることのないひかりとしてうつろっているというプールとしての匿名的場所性なのではないかとおもうんですね。規律的にプールからは排除されてしまう。リスク管理のためなのだけれども、それが匿名的で詩的な視線や空間を生む。結語の〈誰か〉という視線主体が匿名化されるのもおもしろいと思います。たとえ〈わたし〉や〈あなた〉がプールを眺めていたとしても〈わたし〉でない〈誰か〉としてそのときその場所で眺めていたかもしれない偶有的可能態としてのおもしろさがあるように思います。プールは、誰もが名を流され、匿名になる、といったことがうかがえるようにもおもいます。
うえのうたでは「冬のプール」と書いてありますが、プールは夏のプールと冬のプールでまったくちがった表情をみせるのも特徴的です。
春のプール夏のプール秋のプール冬のプールに星が降るなり 穂村弘
このうたのおもしろいところは結句に「星が降るなり」と語ることによって人称主体のいないプールを描き出しているところにあるようにおもいます。人称主体がいないということは、季節という差異でありなめらかな連続性としてのライフサイクルのなかでプールが自律的にある生態としてひとに関わりなく機能しているっていうことを描き出すようにおもうんですよね。
そうした人称主体が無化されたプールの句では、こんな俳句もあります。
夜のプール水に平らの戻りけり 鶴岡加苗
この俳句がおもしろいのは、夜のまったいらなプールにもちろん人称主体はいないんですが、しかしそれを想起している人称主体を潜在的に感じさせるところだとおもうんです。つまり、語り手は平らな夜のプールを、騒々しい水面がおおきく波打つ昼のプールとの差異において想起している。そういう潜在的人称主体がこのプールの水底にはいるのではないかとおもうんですね。
夜のプールにはこんなうたもあります。
つぎつぎと夜のプールの水面を飛びだしてくる椅子や挫折が 山下一路
これも昼のプールとの潜在的差異がおもしろいうたなんじゃないかとおもうんです。昼のプールとは、つぎつぎに飛び込んでいく場所です。けれどもいま語り手が描いているこの「夜のプール」は逆に「椅子や挫折」が飛び出してくるプールです。しかも「椅子」と「挫折」というモノと概念がナチュラルに並列化されているように、語法的にもアナーキーでハイブリッドな空間としてのプールになっています。プールっていうのはそういう言語の渦としての異界にもなるようにおもうんですね。
ハイブリッドな空間としてのプール。
夜半のプールで知り合って僕と交わった少女らは明けがた爬虫類園に帰った 松平修文
このうたでのプールは異種混淆の端緒としての場所として描かれています。考えてみると、プールっていうのは休み時間や監視員など外面では秩序や規律に満たされているんですが、プールの内部はみなが匿名的にぐちゃぐちゃになるカオスが渦巻いています。そこではみながほとんど裸体であり、名前も属性もアイデンティティもおそらくは奪われ、流されてしまっています。しかしだからこそ、他者と容易に溶け合う空間にもなっているようにもおもうんです。
液状の鳥がプールに満たされていて夜ごとに一羽ずつ減る 笹井宏之
「満たされていて」の句またがりが異様な感触として発話されるうたです。このうたのおもしろさは、私はプールっていうのは裸体で直に触れるようなストレートな身体的場でありながらも誰もプールの成分はほとんど知らないというブラックボックスとしてのプールにあるんじゃないかとおもうんですよね。それでも「夜ごとに一羽ずつ減る」ことによってプールはプールとしての生態をひとと関わりなく生きています。プール自体の生命性、オカルティズムがおもしろいようにおもいます。
プールと生命体に関しては次のような句もあります。
プールからプテラノドンが見えてゐる 関悦史
プールっていうのは場所性からなのかシステムからなのか、地下につくられることが多いとおもうんですが、地下につくられることが多いということは、プールは位階構造を生成しやすい構造化する構造をもっているということのようにおもうんです。そして地下/地上という位階を生成するということは、〈みあげる〉または背泳ぎなどによる〈あおぐ〉という行為がふだんしている以上に意味を担ってくるということではないかとおもうんですね。たとえば背泳ぎでみた空がいつもの様相とはちがうといったようなそういったことです。そういった構造化された構造によって変化してしまう下から上へのアクションを描いているところがおもしろいのではないかとおもったりします。その変化こそが「プテラノドン」なのではないかと。
またもうひとつプールに特権的な行為に〈落下〉があります。プールとは飛び込み・落ちる場所ですよね。
校舎光るプールに落ちてゆくときに 神野紗希
この俳句でもプールに特有の身体性を媒介にすることによってふだん目にしているなにげない光景/風景が神秘化してしまうというおもしろさがあるようにおもいます。
しかも語り手はプールに落ちている最中なので、このあとに予想できることは視界の暴力的なシャットダウンです。しかしだからこそ、ただの校舎が一回的で、オーラを放つ風景として神秘性をもって眼にはいってきたはずです。そういえば思想家のベンヤミンがアウラとはねそべってみるものだといっていたようにもおもうんですが、そうしたふだんの所作から離れた身体的行為でオーラが発現するのは興味ぶかいことです。
プール自体の構造化する構造もあるのですが、それよりも水面/水底といったプール内部にもプールが抱える構造化する構造があるのがプールです。
月眩しプールの底に触れてきて 佐藤雄志
プールの底というのは水面/水底といった「/」を生成することにより、イニシエーションのような通過儀礼的境界線になります。「触れてきて」と他者に要請することは、その発話をあいてが遂行してくれるかどうかのときに〈わたし〉や〈愛〉をめぐる賭博的発話にもなりうるはずです。そうした境界をめぐる緊張感をたたえた俳句のようにもおもいます(追記なんですが、この句は、自然な読みとして、「プールの底に触れてき」たあとで「月」の光を浴びるという読みができます。その場合の読みでわたしが思うのは、「プールの底に触れてきて」という長い倒置の重たさがプールの水の重たさとしてあらわれているように思うんです。でもその水の重たさを底からくぐりぬけたぶん、月の光の眩しさもある。「プールの底に触れてきて」を私は他者の要請と読んだのですが、ここに鍵かっこがない限り、深読みしすぎたように感じます)。
プールとしての短詩型文学のなかを泳いできましたが、プールは裸体で泳ぐという快感原則の支配する場所であると同時に、飛び込みに失敗すれば痛いだけでなくときに死をもたらすかもしれないエロスとタナトスが充満する空間でもあるはずです。
それでもプールの誘惑に負けてしまった者は、快感原則のまっただなかに現実原則をつきやぶってあたまから、つまさきから、ためらいなく、予断なく、待ったなしで、飛び込んでいかなければなりません。わたしも、あなたも、この世の法則を破砕するピストルが鳴ったならば──
ピストルがプールの硬き面(も)にひびき 山口誓子
プールとしての短詩型文学のなかにすこし潜ってみようとしてみるのが今回の文章の趣旨です。
まず、プールって実は〈強制的休み時間〉に象徴されるように、体育座りをして〈み〉ているものだと思うんですね。泳ぐよりも、水面を、水底を、みているのがプールなのではないか。
受取人不明の光でいっぱいの冬のプールを見ていた誰か 千葉聡
このうたがおもしろいのは、そうしたみられるプールの水面にひかりがゆらめいている。でもそれが誰のものでもない、所有されることのないひかりとしてうつろっているというプールとしての匿名的場所性なのではないかとおもうんですね。規律的にプールからは排除されてしまう。リスク管理のためなのだけれども、それが匿名的で詩的な視線や空間を生む。結語の〈誰か〉という視線主体が匿名化されるのもおもしろいと思います。たとえ〈わたし〉や〈あなた〉がプールを眺めていたとしても〈わたし〉でない〈誰か〉としてそのときその場所で眺めていたかもしれない偶有的可能態としてのおもしろさがあるように思います。プールは、誰もが名を流され、匿名になる、といったことがうかがえるようにもおもいます。
うえのうたでは「冬のプール」と書いてありますが、プールは夏のプールと冬のプールでまったくちがった表情をみせるのも特徴的です。
春のプール夏のプール秋のプール冬のプールに星が降るなり 穂村弘
このうたのおもしろいところは結句に「星が降るなり」と語ることによって人称主体のいないプールを描き出しているところにあるようにおもいます。人称主体がいないということは、季節という差異でありなめらかな連続性としてのライフサイクルのなかでプールが自律的にある生態としてひとに関わりなく機能しているっていうことを描き出すようにおもうんですよね。
そうした人称主体が無化されたプールの句では、こんな俳句もあります。
夜のプール水に平らの戻りけり 鶴岡加苗
この俳句がおもしろいのは、夜のまったいらなプールにもちろん人称主体はいないんですが、しかしそれを想起している人称主体を潜在的に感じさせるところだとおもうんです。つまり、語り手は平らな夜のプールを、騒々しい水面がおおきく波打つ昼のプールとの差異において想起している。そういう潜在的人称主体がこのプールの水底にはいるのではないかとおもうんですね。
夜のプールにはこんなうたもあります。
つぎつぎと夜のプールの水面を飛びだしてくる椅子や挫折が 山下一路
これも昼のプールとの潜在的差異がおもしろいうたなんじゃないかとおもうんです。昼のプールとは、つぎつぎに飛び込んでいく場所です。けれどもいま語り手が描いているこの「夜のプール」は逆に「椅子や挫折」が飛び出してくるプールです。しかも「椅子」と「挫折」というモノと概念がナチュラルに並列化されているように、語法的にもアナーキーでハイブリッドな空間としてのプールになっています。プールっていうのはそういう言語の渦としての異界にもなるようにおもうんですね。
ハイブリッドな空間としてのプール。
夜半のプールで知り合って僕と交わった少女らは明けがた爬虫類園に帰った 松平修文
このうたでのプールは異種混淆の端緒としての場所として描かれています。考えてみると、プールっていうのは休み時間や監視員など外面では秩序や規律に満たされているんですが、プールの内部はみなが匿名的にぐちゃぐちゃになるカオスが渦巻いています。そこではみながほとんど裸体であり、名前も属性もアイデンティティもおそらくは奪われ、流されてしまっています。しかしだからこそ、他者と容易に溶け合う空間にもなっているようにもおもうんです。
液状の鳥がプールに満たされていて夜ごとに一羽ずつ減る 笹井宏之
「満たされていて」の句またがりが異様な感触として発話されるうたです。このうたのおもしろさは、私はプールっていうのは裸体で直に触れるようなストレートな身体的場でありながらも誰もプールの成分はほとんど知らないというブラックボックスとしてのプールにあるんじゃないかとおもうんですよね。それでも「夜ごとに一羽ずつ減る」ことによってプールはプールとしての生態をひとと関わりなく生きています。プール自体の生命性、オカルティズムがおもしろいようにおもいます。
プールと生命体に関しては次のような句もあります。
プールからプテラノドンが見えてゐる 関悦史
プールっていうのは場所性からなのかシステムからなのか、地下につくられることが多いとおもうんですが、地下につくられることが多いということは、プールは位階構造を生成しやすい構造化する構造をもっているということのようにおもうんです。そして地下/地上という位階を生成するということは、〈みあげる〉または背泳ぎなどによる〈あおぐ〉という行為がふだんしている以上に意味を担ってくるということではないかとおもうんですね。たとえば背泳ぎでみた空がいつもの様相とはちがうといったようなそういったことです。そういった構造化された構造によって変化してしまう下から上へのアクションを描いているところがおもしろいのではないかとおもったりします。その変化こそが「プテラノドン」なのではないかと。
またもうひとつプールに特権的な行為に〈落下〉があります。プールとは飛び込み・落ちる場所ですよね。
校舎光るプールに落ちてゆくときに 神野紗希
この俳句でもプールに特有の身体性を媒介にすることによってふだん目にしているなにげない光景/風景が神秘化してしまうというおもしろさがあるようにおもいます。
しかも語り手はプールに落ちている最中なので、このあとに予想できることは視界の暴力的なシャットダウンです。しかしだからこそ、ただの校舎が一回的で、オーラを放つ風景として神秘性をもって眼にはいってきたはずです。そういえば思想家のベンヤミンがアウラとはねそべってみるものだといっていたようにもおもうんですが、そうしたふだんの所作から離れた身体的行為でオーラが発現するのは興味ぶかいことです。
プール自体の構造化する構造もあるのですが、それよりも水面/水底といったプール内部にもプールが抱える構造化する構造があるのがプールです。
月眩しプールの底に触れてきて 佐藤雄志
プールの底というのは水面/水底といった「/」を生成することにより、イニシエーションのような通過儀礼的境界線になります。「触れてきて」と他者に要請することは、その発話をあいてが遂行してくれるかどうかのときに〈わたし〉や〈愛〉をめぐる賭博的発話にもなりうるはずです。そうした境界をめぐる緊張感をたたえた俳句のようにもおもいます(追記なんですが、この句は、自然な読みとして、「プールの底に触れてき」たあとで「月」の光を浴びるという読みができます。その場合の読みでわたしが思うのは、「プールの底に触れてきて」という長い倒置の重たさがプールの水の重たさとしてあらわれているように思うんです。でもその水の重たさを底からくぐりぬけたぶん、月の光の眩しさもある。「プールの底に触れてきて」を私は他者の要請と読んだのですが、ここに鍵かっこがない限り、深読みしすぎたように感じます)。
プールとしての短詩型文学のなかを泳いできましたが、プールは裸体で泳ぐという快感原則の支配する場所であると同時に、飛び込みに失敗すれば痛いだけでなくときに死をもたらすかもしれないエロスとタナトスが充満する空間でもあるはずです。
それでもプールの誘惑に負けてしまった者は、快感原則のまっただなかに現実原則をつきやぶってあたまから、つまさきから、ためらいなく、予断なく、待ったなしで、飛び込んでいかなければなりません。わたしも、あなたも、この世の法則を破砕するピストルが鳴ったならば──
ピストルがプールの硬き面(も)にひびき 山口誓子
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