【感想】「悪いひとじゃあないんだけどね」「けどね」「ね」と笑うぼくらの足もとに床 斉藤斎藤
- 2015/12/17
- 12:41
「悪いひとじゃあないんだけどね」「けどね」「ね」と笑うぼくらの足もとに床 斉藤斎藤
【意外な共有意識、床】
先日のラジオ深夜便で天野慶さんが紹介されていた斉藤さんの短歌です。
歌集では読んでいたのですが、天野さんの声をとおして聴いたときに「床」の意外性にあらためて驚いたんですよね。
あ、床なのか、と。
音読できいてわかったことなんですが、「ね」「ね」「ね」って共有される〈ね〉が構築されるのが特徴的だと思うんですが、ところがそうした会話で構築された〈上〉からいっきに「床」という〈下〉にひきさがるんですよ。で、斉藤さんの短歌ってこういう視線の〈意外な動き〉が多いようにおもうんですね。〈意外な動き〉でしかあらわしえないような空間をつくっている。
たとえば、
死因の一位が老衰になる夕暮れにイチローが打つきれいな当たり 斉藤斎藤
ここでは「一位」が上をあらわしていると思うんですが、「きれいな当たり」で〈上〉〈横〉〈奥〉といったもうひちつの空間を拡張してゆく。「老衰」という空間の収縮と「きれいな当たり」の空間の拡張も対照になっていますよね。
で、斉藤さんの短歌の空間ってこういう〈意外な空間拡張〉が共有化されることによってできあがっているのではないかとおもうんですよ。
実はみんな「床」を共有しているんだけれど、ふだんは意識していない。でも意識していない「床」によって実はあんがいかんたんに短絡的につながっていたりする。もっといえば、どんなに「ね」の同意を求めようとそんな言語でわたしたちは結びつくことはできなくて、たんに「床」でしか結びつけなかったりもする。
そういう〈意識下にある共有空間〉をひっぱりだすのが斉藤さんの短歌なのかなあとおもうんですよ。
「売り物のベッド」という〈意識下にある共有空間〉。愛、でなく。
売り物のベッドにすわる 「生きることは愛すること」と瀬戸内寂聴 斉藤斎藤
グリーナウェイ『水の協奏曲』(1984)。わたしたちの共有空間に〈水〉がありますよね。むかしこの水しか出てこない映画をともだちにいっしょにみようといったら、いやだといわれたんですが、でもこの映画たのしいんですよ。水か浴室しかでてこないんです。で、事典映画をつくるグリーナウェイらしく、さまざまな水や浴室を蒐集していくのが映画のコンセプトになっているんですね。さびれた浴室やハイテクな浴室やアートな浴室やプールの水や河の水や水球ではじける水など。実は蒐集や事典的視線っていうのは、意外な共有空間をひっぱりだしたい意識なのかもしれませんよね。それはベンヤミンがいった遊民が街をぶらぶらしながら思いがけない正座を描くことと似ているかもしれない。
【意外な共有意識、床】
先日のラジオ深夜便で天野慶さんが紹介されていた斉藤さんの短歌です。
歌集では読んでいたのですが、天野さんの声をとおして聴いたときに「床」の意外性にあらためて驚いたんですよね。
あ、床なのか、と。
音読できいてわかったことなんですが、「ね」「ね」「ね」って共有される〈ね〉が構築されるのが特徴的だと思うんですが、ところがそうした会話で構築された〈上〉からいっきに「床」という〈下〉にひきさがるんですよ。で、斉藤さんの短歌ってこういう視線の〈意外な動き〉が多いようにおもうんですね。〈意外な動き〉でしかあらわしえないような空間をつくっている。
たとえば、
死因の一位が老衰になる夕暮れにイチローが打つきれいな当たり 斉藤斎藤
ここでは「一位」が上をあらわしていると思うんですが、「きれいな当たり」で〈上〉〈横〉〈奥〉といったもうひちつの空間を拡張してゆく。「老衰」という空間の収縮と「きれいな当たり」の空間の拡張も対照になっていますよね。
で、斉藤さんの短歌の空間ってこういう〈意外な空間拡張〉が共有化されることによってできあがっているのではないかとおもうんですよ。
実はみんな「床」を共有しているんだけれど、ふだんは意識していない。でも意識していない「床」によって実はあんがいかんたんに短絡的につながっていたりする。もっといえば、どんなに「ね」の同意を求めようとそんな言語でわたしたちは結びつくことはできなくて、たんに「床」でしか結びつけなかったりもする。
そういう〈意識下にある共有空間〉をひっぱりだすのが斉藤さんの短歌なのかなあとおもうんですよ。
「売り物のベッド」という〈意識下にある共有空間〉。愛、でなく。
売り物のベッドにすわる 「生きることは愛すること」と瀬戸内寂聴 斉藤斎藤
グリーナウェイ『水の協奏曲』(1984)。わたしたちの共有空間に〈水〉がありますよね。むかしこの水しか出てこない映画をともだちにいっしょにみようといったら、いやだといわれたんですが、でもこの映画たのしいんですよ。水か浴室しかでてこないんです。で、事典映画をつくるグリーナウェイらしく、さまざまな水や浴室を蒐集していくのが映画のコンセプトになっているんですね。さびれた浴室やハイテクな浴室やアートな浴室やプールの水や河の水や水球ではじける水など。実は蒐集や事典的視線っていうのは、意外な共有空間をひっぱりだしたい意識なのかもしれませんよね。それはベンヤミンがいった遊民が街をぶらぶらしながら思いがけない正座を描くことと似ているかもしれない。
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