【川柳】倒れます…(かばん2013年12月号掲載)
- 2014/04/04
- 21:00
倒れます動体視力さげすんで 柳本々々
(かばん2013年12月号掲載)
【自(分で)解(いてみる)-加藤茶と志村けんとジャック・デリダ-】
前号寸評にて飯島章友さんから「加藤茶が志村にツッコミを入れる時わざと間を溜めたため『叩くなら早く叩け!』と逆ツッコミされることがあるが、その面白さに通じる」(かばん2014年1月号)とコメントをいただいた。
飯島さんからいただいたことばを自分なりに敷衍させてみると、おそらく川柳において〈動態〉を描こうとするとかならずそこに時間の滞留がうまれ、時間差が生じてしまうということではないのだろうか。
なぜなら、アクションとは、時間性を無視して、無時間的に身体を動かす営為なはずなのだが、川柳には、上五・中七・下五というベクトルとしての時間の流れがあり、この時間に〈動態〉はつかまらざるをえないからである。
乱暴に云えば、短歌・川柳・俳句などのベクトルをもった定型詩とは、アクションとしての動態を時間にあえてつかまらせようとする行為のようにもおもう。しかし、そのつかまらせることで時間と時間の幅が生じ、時間差がうまれてしまう。
たとえば、うえの句。「倒れます」ではじまっているのだが、つぎの中七・下五で倒れる・倒れないではなくて、倒れることに関する語り手の意識に句の重心がうつっている。つまり、これでは倒れたのか倒れてないのかわからないのだ(だから、加藤茶はつっこめない)。
つまり、川柳の時間性とは、加藤茶のつっこみがつっこもうとしたその瞬間に、不発におわるという、加藤茶のつっこみの遅延、あえてデリダの思想タームをつかうなら、加藤茶のつっこみの差延を胚胎しつづけることに川柳の時間性質はあるのではないだろうか。
飯島さんが「加藤茶」と「志村けん」の話題を持ち出してくれたときに、喚起せざるをえない「志村、うしろー」という志村がうしろに気づいていながら・気づいていないふりをする、しかし観客=読み手=聴き手は志村の様相にきがついているためにメタ発言を行うという有名な志村けんの公式があるが、じつはその志村けんの公式(語り手はうしろをしっているが・しっていないように演じる・しかし聴き手としてのメタ視点はうしろに言及している)に川柳の〈本質〉があるのではないだろうか。
つまり、やはりそこにあらわれるのは、決定しようとするまさにその瞬間に決定しそこね、その構造がくりかえされることによって構造そのものが破綻し、べつの意味が生産されざるをえないという〈差延〉が登場してくるのだ。
もろもろの過去把持および未来予持の標記・痕跡からなる「根源的な」綜合、還元不可能なほど非ー単一的な、つまり厳密な意味では非-根源的な綜合─そうした綜合としての〈現在の構成〉、これこそ私は原ーエクリチュール、原ー痕跡、ないしは差延と呼ぶことを提案しているのである。差延(は)空間化(と同時に)時間かせぎ(である)。
ジャック・デリダ「差延」『哲学の余白(上)』
【句集『呼びにゆく』-佐藤みさ子が/を、呼びにゆく-】
佐藤みさ子さんに、『呼びにゆく』という句集があるのだが、この句集にも「加藤茶のつっこみとしての差延」があふれている。たとえば、次の句。
たすけてくださいと自分を呼びにゆく
「たすけてください」と発話された瞬間、統辞論的にはじぶん以外の他者への呼びかけとしてあらわれるはずの目的格にあらわれたのはなんと「自分」である。
「自分を呼びにゆく」のであれば、呼びにゆく〈この〉主体はだれなのか。
つまり、たすけてくださいとだれかに対してたすけを求めながら、すかさずそれを「自分」へと、「たすけてください」構造を倒錯的に反転させることによって〈動態〉を宙吊りさせることに成功している。
つまり、この句集『呼びにゆく』とは、「呼びにゆく」ことが不発におわる句集。差延のなかでえいえんにつっこむことのできない加藤茶、うしろにきづきつつえいえんにうしろをふりむけない志村けん、という構造をもっている。
こんなふうに、川柳と動態と時間の関係を(加藤茶/志村けんを媒介にして)かんがえてみるとおもしろいことがわかってくるのではないだろうか。
さいごに寸評を書いてくださった飯島章友さんにお礼をいってこの文章をおわりにしたい。飯島さん、ありがとうございました。
(かばん2014年1月号p20)
(かばん2013年12月号掲載)
【自(分で)解(いてみる)-加藤茶と志村けんとジャック・デリダ-】
前号寸評にて飯島章友さんから「加藤茶が志村にツッコミを入れる時わざと間を溜めたため『叩くなら早く叩け!』と逆ツッコミされることがあるが、その面白さに通じる」(かばん2014年1月号)とコメントをいただいた。
飯島さんからいただいたことばを自分なりに敷衍させてみると、おそらく川柳において〈動態〉を描こうとするとかならずそこに時間の滞留がうまれ、時間差が生じてしまうということではないのだろうか。
なぜなら、アクションとは、時間性を無視して、無時間的に身体を動かす営為なはずなのだが、川柳には、上五・中七・下五というベクトルとしての時間の流れがあり、この時間に〈動態〉はつかまらざるをえないからである。
乱暴に云えば、短歌・川柳・俳句などのベクトルをもった定型詩とは、アクションとしての動態を時間にあえてつかまらせようとする行為のようにもおもう。しかし、そのつかまらせることで時間と時間の幅が生じ、時間差がうまれてしまう。
たとえば、うえの句。「倒れます」ではじまっているのだが、つぎの中七・下五で倒れる・倒れないではなくて、倒れることに関する語り手の意識に句の重心がうつっている。つまり、これでは倒れたのか倒れてないのかわからないのだ(だから、加藤茶はつっこめない)。
つまり、川柳の時間性とは、加藤茶のつっこみがつっこもうとしたその瞬間に、不発におわるという、加藤茶のつっこみの遅延、あえてデリダの思想タームをつかうなら、加藤茶のつっこみの差延を胚胎しつづけることに川柳の時間性質はあるのではないだろうか。
飯島さんが「加藤茶」と「志村けん」の話題を持ち出してくれたときに、喚起せざるをえない「志村、うしろー」という志村がうしろに気づいていながら・気づいていないふりをする、しかし観客=読み手=聴き手は志村の様相にきがついているためにメタ発言を行うという有名な志村けんの公式があるが、じつはその志村けんの公式(語り手はうしろをしっているが・しっていないように演じる・しかし聴き手としてのメタ視点はうしろに言及している)に川柳の〈本質〉があるのではないだろうか。
つまり、やはりそこにあらわれるのは、決定しようとするまさにその瞬間に決定しそこね、その構造がくりかえされることによって構造そのものが破綻し、べつの意味が生産されざるをえないという〈差延〉が登場してくるのだ。
もろもろの過去把持および未来予持の標記・痕跡からなる「根源的な」綜合、還元不可能なほど非ー単一的な、つまり厳密な意味では非-根源的な綜合─そうした綜合としての〈現在の構成〉、これこそ私は原ーエクリチュール、原ー痕跡、ないしは差延と呼ぶことを提案しているのである。差延(は)空間化(と同時に)時間かせぎ(である)。
ジャック・デリダ「差延」『哲学の余白(上)』
【句集『呼びにゆく』-佐藤みさ子が/を、呼びにゆく-】
佐藤みさ子さんに、『呼びにゆく』という句集があるのだが、この句集にも「加藤茶のつっこみとしての差延」があふれている。たとえば、次の句。
たすけてくださいと自分を呼びにゆく
「たすけてください」と発話された瞬間、統辞論的にはじぶん以外の他者への呼びかけとしてあらわれるはずの目的格にあらわれたのはなんと「自分」である。
「自分を呼びにゆく」のであれば、呼びにゆく〈この〉主体はだれなのか。
つまり、たすけてくださいとだれかに対してたすけを求めながら、すかさずそれを「自分」へと、「たすけてください」構造を倒錯的に反転させることによって〈動態〉を宙吊りさせることに成功している。
つまり、この句集『呼びにゆく』とは、「呼びにゆく」ことが不発におわる句集。差延のなかでえいえんにつっこむことのできない加藤茶、うしろにきづきつつえいえんにうしろをふりむけない志村けん、という構造をもっている。
こんなふうに、川柳と動態と時間の関係を(加藤茶/志村けんを媒介にして)かんがえてみるとおもしろいことがわかってくるのではないだろうか。
さいごに寸評を書いてくださった飯島章友さんにお礼をいってこの文章をおわりにしたい。飯島さん、ありがとうございました。
(かばん2014年1月号p20)
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