【感想】お別れね 壜の中身を当てたから なかはられいこ
- 2014/07/07
- 04:23
お別れね 壜の中身を当てたから なかはられいこ
【いいあてられた、さようなら】
とても好きな句でよく思い返しているんですが、この句のおもしろさをあえて自分なりにことばにしてみるならばおそらくそれは〈中身〉の主題化=特権化ではないかとおもうんですね。
中身への浸食が起きたときにそれが「お別れ」となるような〈決定的な事態〉は起こってしまう。なぜそんなことになってしまうのかというと、この「お別れね」と発話している人物にとっては外部/中身の階層が明確に区分けされていたからだと思うんですね。「外」と「中身」はイコールの関係ではなく、「外」<「中」となるような「中身」というのはすごく重要な場所として領域化されている。
もうひとつ大事だと思うのは、「当てた」という動詞です。壜の中身を「見た」や「触れた」「食べた」でははなく、「当てた」が大事だとおもいます。「当てる」というのは、どういう動詞なのかというと、あるXがあった場合、それをいったん言語化して相手に伝えるということです。当たったかどうかが言語のレベルで判断されるのが「当てる」です。つまり、この「お別れ」とは、〈言語〉が決定的に介在しているということです。
つまりこの句は、ある意味、言語化することのタブーと侵犯を主題にもっている句といえるようにおもうんです。
壜の中身を見ても、触れても、嗅いでも、たべても、それはおそらく問題ではなかった。しかし、壜の中身を言語化し、名前もラベルされることなく意味として浮遊していたはずの壜の中身にことばを与え、意味にとどめをさしてはいけない関係だったのです。
だからこの句にかんしてはこんなふうな見方もできるかもしれません。ある関係において、ふたりには定かでなかったXを言語化し、固定=同一化しようとしたときに、それはXを超えて、わたしとあなたの共ー身体のズレ=別れとしてやってくるのだ、と。
ちなみに、なかはらさんの川柳にとってわたしはこの「中身」としての主題はけっこう大事なんではないかと思っています。
たとえばなかはらさんの句集のタイトルは『脱衣場のアリス』でしたが、〈脱衣場〉というのは、まずは衣服を脱ぐための外/中を区切る境界的場所のみならず、脱衣所のなかにおいても、みずからが着衣/裸体というみずからの外/中を生成する場所にもなっています。そして「脱衣場」というのは他者が〈侵犯〉することのタブーがいつもあるように、パンドラの箱のような「あけてはならない」場所でもあります。
だからこそ、なかはらさんの次のような違ったパンドラの箱としての「下腹部」から「中身」がひきずりだされてくるような句は批評性があるようにおもうのです。
それは、国家という想像的な審級が、男性的身体下部というあまりに偏向された、ストレートなリビドーとして発現されてしまっているリスキーな瞬間、ある意味、偏向された想像の暴発をとらえた句なのではないかとおもいます。すなわち、
ファスナーを下げて引きずり出す国家 なかはられいこ
【いいあてられた、さようなら】
とても好きな句でよく思い返しているんですが、この句のおもしろさをあえて自分なりにことばにしてみるならばおそらくそれは〈中身〉の主題化=特権化ではないかとおもうんですね。
中身への浸食が起きたときにそれが「お別れ」となるような〈決定的な事態〉は起こってしまう。なぜそんなことになってしまうのかというと、この「お別れね」と発話している人物にとっては外部/中身の階層が明確に区分けされていたからだと思うんですね。「外」と「中身」はイコールの関係ではなく、「外」<「中」となるような「中身」というのはすごく重要な場所として領域化されている。
もうひとつ大事だと思うのは、「当てた」という動詞です。壜の中身を「見た」や「触れた」「食べた」でははなく、「当てた」が大事だとおもいます。「当てる」というのは、どういう動詞なのかというと、あるXがあった場合、それをいったん言語化して相手に伝えるということです。当たったかどうかが言語のレベルで判断されるのが「当てる」です。つまり、この「お別れ」とは、〈言語〉が決定的に介在しているということです。
つまりこの句は、ある意味、言語化することのタブーと侵犯を主題にもっている句といえるようにおもうんです。
壜の中身を見ても、触れても、嗅いでも、たべても、それはおそらく問題ではなかった。しかし、壜の中身を言語化し、名前もラベルされることなく意味として浮遊していたはずの壜の中身にことばを与え、意味にとどめをさしてはいけない関係だったのです。
だからこの句にかんしてはこんなふうな見方もできるかもしれません。ある関係において、ふたりには定かでなかったXを言語化し、固定=同一化しようとしたときに、それはXを超えて、わたしとあなたの共ー身体のズレ=別れとしてやってくるのだ、と。
ちなみに、なかはらさんの川柳にとってわたしはこの「中身」としての主題はけっこう大事なんではないかと思っています。
たとえばなかはらさんの句集のタイトルは『脱衣場のアリス』でしたが、〈脱衣場〉というのは、まずは衣服を脱ぐための外/中を区切る境界的場所のみならず、脱衣所のなかにおいても、みずからが着衣/裸体というみずからの外/中を生成する場所にもなっています。そして「脱衣場」というのは他者が〈侵犯〉することのタブーがいつもあるように、パンドラの箱のような「あけてはならない」場所でもあります。
だからこそ、なかはらさんの次のような違ったパンドラの箱としての「下腹部」から「中身」がひきずりだされてくるような句は批評性があるようにおもうのです。
それは、国家という想像的な審級が、男性的身体下部というあまりに偏向された、ストレートなリビドーとして発現されてしまっているリスキーな瞬間、ある意味、偏向された想像の暴発をとらえた句なのではないかとおもいます。すなわち、
ファスナーを下げて引きずり出す国家 なかはられいこ
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