【ふしぎな川柳 第四十九夜】じゃあね、と云われたー普川素床ー
- 2015/12/25
- 15:55
ギャグを考えていると闇がじゃあね、と云った 普川素床
【語ってるとじゃあねと云われるふしぎ】
普川さんの句ってふしぎというかどういうふうに読めばいいんだろうかっていう句が多いんですが、たとえばこの句にあらわれているように語り手自身が〈語っている〉とういよりは、〈向こう側から話しかけられてしまっている〉ことが句になっているんじゃないかって気がしないでもないんですね。
だから、語り手じしんもそのときその場所で起こった出来事を現在進行形で〈読んでいる〉といった感覚に近いんじゃないかとも思うんです。
こちらの語りの枠組みにはお構いなしに話しかけてくるものですね。それは〈意識の外〉の物語といってもいいかもしれないけれど、
「ギャグを考えていると」ってここまでは語り手が「考えている」ことなんだけれど、とつぜん「闇が」語り出すというか動き出しますね。「ギャグ」とは無関係に。接続助詞「と」がつないでいるようにみえるけれど、でも裏返せばこの接続助詞「と」でしかつながってしかいないんじゃないかとさえ、おもう。
のど自慢どこかで死者がまたひとり 普川素床
これも似たベクトルをもっているとおもうんですよ。「のど自慢」という集団的な没頭の枠組み、ある意味では生の祝祭のなかにいて、ひとり〈意識の外〉で「死者」のことを考えている。「闇がじゃあね、と云った」と少し似ています。死の側から、向こうから話しかけられてしまっているとも言えますよね。
語りをあえてコントロールしないところにどういう表現が生まれ得るのかっていうのが現代川柳にはあるんじゃないかっていうことを普川さんの句は教えてくれるように思うんですよ。定型詩なので、コントロールしがちなんだけれども、でも〈むこう〉からふいに定型をつきやぶって〈定型の第四の壁〉をつきやぶってくるもの。
オイと呼ぶとぼくが出てくるマラソン 普川洋
富野由悠季『伝説巨神イデオン 発動篇』(1982)。富野由悠季アニメをみていると、ガンダムやダイターン、ザンボットも含めてずっと〈むこうから語りかけてくるなにか〉を追求しているように思うんですね。で、それがいちばん具象化されたものがイデオンのイデのように思うんです。イデはむこうから語りかけてきてどんどん上京を変えていきますから、善悪とか敵味方とか正義とか意志とか生死とかは関係ないんですね。ある意味、物語の向こう側にいる作者のような存在ではあるんだけれど、でも物語の登場人物がイデとはいったいなんなのかをみんな意識している。そして抵抗さえしようとしている。物語る行為はいつも〈むこう〉側がうまれてしまう。その〈むこう〉と〈こちら〉の葛藤を描きつづけているのが富野由悠季アニメなのかなって思うんです。で、このイデオン映画では発動篇とあるようにむこう側が〈発動〉してしまう。イデが「じゃあね、と云」うのです。
【語ってるとじゃあねと云われるふしぎ】
普川さんの句ってふしぎというかどういうふうに読めばいいんだろうかっていう句が多いんですが、たとえばこの句にあらわれているように語り手自身が〈語っている〉とういよりは、〈向こう側から話しかけられてしまっている〉ことが句になっているんじゃないかって気がしないでもないんですね。
だから、語り手じしんもそのときその場所で起こった出来事を現在進行形で〈読んでいる〉といった感覚に近いんじゃないかとも思うんです。
こちらの語りの枠組みにはお構いなしに話しかけてくるものですね。それは〈意識の外〉の物語といってもいいかもしれないけれど、
「ギャグを考えていると」ってここまでは語り手が「考えている」ことなんだけれど、とつぜん「闇が」語り出すというか動き出しますね。「ギャグ」とは無関係に。接続助詞「と」がつないでいるようにみえるけれど、でも裏返せばこの接続助詞「と」でしかつながってしかいないんじゃないかとさえ、おもう。
のど自慢どこかで死者がまたひとり 普川素床
これも似たベクトルをもっているとおもうんですよ。「のど自慢」という集団的な没頭の枠組み、ある意味では生の祝祭のなかにいて、ひとり〈意識の外〉で「死者」のことを考えている。「闇がじゃあね、と云った」と少し似ています。死の側から、向こうから話しかけられてしまっているとも言えますよね。
語りをあえてコントロールしないところにどういう表現が生まれ得るのかっていうのが現代川柳にはあるんじゃないかっていうことを普川さんの句は教えてくれるように思うんですよ。定型詩なので、コントロールしがちなんだけれども、でも〈むこう〉からふいに定型をつきやぶって〈定型の第四の壁〉をつきやぶってくるもの。
オイと呼ぶとぼくが出てくるマラソン 普川洋
富野由悠季『伝説巨神イデオン 発動篇』(1982)。富野由悠季アニメをみていると、ガンダムやダイターン、ザンボットも含めてずっと〈むこうから語りかけてくるなにか〉を追求しているように思うんですね。で、それがいちばん具象化されたものがイデオンのイデのように思うんです。イデはむこうから語りかけてきてどんどん上京を変えていきますから、善悪とか敵味方とか正義とか意志とか生死とかは関係ないんですね。ある意味、物語の向こう側にいる作者のような存在ではあるんだけれど、でも物語の登場人物がイデとはいったいなんなのかをみんな意識している。そして抵抗さえしようとしている。物語る行為はいつも〈むこう〉側がうまれてしまう。その〈むこう〉と〈こちら〉の葛藤を描きつづけているのが富野由悠季アニメなのかなって思うんです。で、このイデオン映画では発動篇とあるようにむこう側が〈発動〉してしまう。イデが「じゃあね、と云」うのです。
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