【感想】わたしという夢を見ている臭く熱く痛く長く退屈な蚊取り 柳谷あゆみ
- 2015/12/25
- 16:40
わたしという夢を見ている臭く熱く痛く長く退屈な蚊取り 柳谷あゆみ
金の斧と銀の斧とを見比べてもう戻れないさっきだったか 〃
音がしないから気づかなかった風呂釜がさめざめ泣いている四角くて 〃
【わたしはもうここにいたのだから】
歌の出だしにちょっと注目してほしいんですが、柳谷さんの歌の出だしって定型がやぶけてるというかぼんやりまのびしたような感じから入る歌があるんですよ。
「わたしという夢を…」や「金の斧と…」や「音がしないから…」など。なんだかほつれてる感じがすると思うんですね。とまどいというか。
ところが、結句をみると「退屈な蚊取り」「さっきだったか」「いる四角くて」とわりとかっきりというかきっかり終わっていますよね。。
で、ですね。ふつうは逆だとおもうんですよ。定型詩だからいちばん最初はとりあえずきっかり入って、終わりはもたれる。こっちの方が自然だとおもうんですよ。たとえば春に新しいノートを買うとはじめはすごくきれいな字で書いたりするじゃないですか。始めってみんなちゃんとするとおもうんですよ、なんでかっていうと新しいとまだ文法がわからないから形式を優先するんですね。文法(やりかた)がわかってきたり、なれてきたりするときたない字でノートを書いたりもしますね。
ところが柳谷さんの短歌って形式の遵守からは入らないんですよね。なんだか〈前からずっとそこで暮らしていたかのような感じ〉で短歌が始まるんですよ。それがふしぎで。
で、これら三首をみてると〈気づきの歌〉ですね。「わたしという夢を見ている」ことに気づいた。「もう戻れない」ことに気づいた。「風呂釜がさめざめ泣いている」ことに気づいた。〈気づき〉っていうのは時間幅の認識です。「さっきだったか」と語り手がいっているように、以前から〈ここ〉にいないと気づけないんですよ。
だから定型や短歌がはじまる前に語り手は〈すでに〉ここにいたんです。でも〈気づいた〉しゅんかん、短歌というモードがはじまった。語り手にとってはおそらく気づくということは、歌うことだからです。
でもさっきからずっとここにいたのだから、定型がほつれた感じで短歌のなかに入っていく。えりをただすひつようはないから。
そういう時間幅としての暮らし感覚が柳谷さんの定型にはあらわれているようにもおもうんですよ。
定型にも時間幅による〈錆び〉というものがある。
時はじぶんをおろそかにするなのになぜ新たなわたしにさびが滲むの 柳谷あゆみ
キアロスタミ『オリーブの林をぬけて』(1994)。恋をした青年が好きな女の子に話しかけられずにもじもししながら女の子の周囲を103分ずっとうろうろしているほんとうにそれ《だけ》の映画なんですよ。で、それ《だけ》で終わるんですね。なにも始まりもしない。でも大事なことは103分、ふたりはずっとそこにいた、ってことなんです。だらだら、うじうじ、もじもじ、うろうろ、そこにいた。青年はまるで定型のほつれを存続させるかのようにもじもじしている。でもそれが時間幅としての生きられる時間になっていくわけです。映画って必ずしもプロットではなく、どれだけその場所で無駄な時間をいきいきさせることができるか、ということが賭けられているように思うんですよ。うじうじやもじもじやうろうろこそ、《アクション映画》なのではないか。
金の斧と銀の斧とを見比べてもう戻れないさっきだったか 〃
音がしないから気づかなかった風呂釜がさめざめ泣いている四角くて 〃
【わたしはもうここにいたのだから】
歌の出だしにちょっと注目してほしいんですが、柳谷さんの歌の出だしって定型がやぶけてるというかぼんやりまのびしたような感じから入る歌があるんですよ。
「わたしという夢を…」や「金の斧と…」や「音がしないから…」など。なんだかほつれてる感じがすると思うんですね。とまどいというか。
ところが、結句をみると「退屈な蚊取り」「さっきだったか」「いる四角くて」とわりとかっきりというかきっかり終わっていますよね。。
で、ですね。ふつうは逆だとおもうんですよ。定型詩だからいちばん最初はとりあえずきっかり入って、終わりはもたれる。こっちの方が自然だとおもうんですよ。たとえば春に新しいノートを買うとはじめはすごくきれいな字で書いたりするじゃないですか。始めってみんなちゃんとするとおもうんですよ、なんでかっていうと新しいとまだ文法がわからないから形式を優先するんですね。文法(やりかた)がわかってきたり、なれてきたりするときたない字でノートを書いたりもしますね。
ところが柳谷さんの短歌って形式の遵守からは入らないんですよね。なんだか〈前からずっとそこで暮らしていたかのような感じ〉で短歌が始まるんですよ。それがふしぎで。
で、これら三首をみてると〈気づきの歌〉ですね。「わたしという夢を見ている」ことに気づいた。「もう戻れない」ことに気づいた。「風呂釜がさめざめ泣いている」ことに気づいた。〈気づき〉っていうのは時間幅の認識です。「さっきだったか」と語り手がいっているように、以前から〈ここ〉にいないと気づけないんですよ。
だから定型や短歌がはじまる前に語り手は〈すでに〉ここにいたんです。でも〈気づいた〉しゅんかん、短歌というモードがはじまった。語り手にとってはおそらく気づくということは、歌うことだからです。
でもさっきからずっとここにいたのだから、定型がほつれた感じで短歌のなかに入っていく。えりをただすひつようはないから。
そういう時間幅としての暮らし感覚が柳谷さんの定型にはあらわれているようにもおもうんですよ。
定型にも時間幅による〈錆び〉というものがある。
時はじぶんをおろそかにするなのになぜ新たなわたしにさびが滲むの 柳谷あゆみ
キアロスタミ『オリーブの林をぬけて』(1994)。恋をした青年が好きな女の子に話しかけられずにもじもししながら女の子の周囲を103分ずっとうろうろしているほんとうにそれ《だけ》の映画なんですよ。で、それ《だけ》で終わるんですね。なにも始まりもしない。でも大事なことは103分、ふたりはずっとそこにいた、ってことなんです。だらだら、うじうじ、もじもじ、うろうろ、そこにいた。青年はまるで定型のほつれを存続させるかのようにもじもじしている。でもそれが時間幅としての生きられる時間になっていくわけです。映画って必ずしもプロットではなく、どれだけその場所で無駄な時間をいきいきさせることができるか、ということが賭けられているように思うんですよ。うじうじやもじもじやうろうろこそ、《アクション映画》なのではないか。
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