【感想】指五本ゆびごほんときどき止まる洗濯機 渡辺裕子
- 2014/07/08
- 08:37
指五本ゆびごほんときどき止まる洗濯機 渡辺裕子
【もしも新感覚派の横光利一が家電に出会ったら】
最初みたときに〈誤植〉なんじゃないかと思ったくらいのインパクトのある句です。
この「ゆびごほん」がなければ定型としてはきっちり収まりすべてがうまくゆくのに、この「ゆびごほん」があることによって定型が破れるどころか川柳なのかどうかすらも危うくなるような緊張感があります。
この語り手の「指五本」と「ゆびごほん」が隣り合うような意識のモードをみるにはおそらくは「ときどき止まる洗濯機」への指向に手がかりがあるのではないかとおもいます。
語り手が意識しているのは、「動き続ける洗濯機」ではなく、「ときどき止まる洗濯機」です。ここでは半自動的に回りつづける洗濯機のなかにある〈間断〉に語り手の意識がむいています。まとめれば、半自動性のなかに生じる〈切れ目〉です。
「指五本」というのは「手」のことですよね。「手」といわず「指五本」と微分的にみずからの身体をみている語り手の指向に注意してみます。さらにその「指五本」は漢字によって統辞される意味概念としての拘束からも外れ「ゆびごほん」とひらがなでばらばらにされていきます。
洗濯機の回転の切れ目に語り手の意識が向いているのではないかとは述べたんですが、洗濯機の回転の切れ目とは、それはいままでぐるぐるまわりつづけていたわけですから、切れ目といえどそこには遠心力の残響=残像があるはずです。洗濯機の回転が一時的にとまることによって衣服や靴下はかすかに形態を変えながら汚れを抜かれ、またちがった形態で回転していく。
この「指五本ゆびごほん」というのはそうした洗濯機内における残響=残像としてのイメージなのではないかとおもうんです。だからあえて視覚的にあらわすならば「指五本(ゆびごほん)」といったような。
つまりまとめてみると、この句は、洗濯機の運動態の形式を語り手が意識のモードとして応用してみた句ということになるのではないでしょうか。
そこでとらえられているのは、洗濯機といった家電としての機械的リズムが定型というくちびるのリズムと拮抗しあうその瞬間です。
宗教学者の中沢新一さんがおもしろいことをいっていて、定型のリズムとはもともと船をこぐことから起こってるんじゃないかという定型と身体をめぐる興味深い意見を述べているんですが、ではそれならば機械が身近に導入されたわたしたちの生活のなかで機械の音律はどのように定型と拮抗し、侵入し、溶解しあうのだろうかというのは実は興味深いテーマのようにもおもいます。
たとえば、短歌なり俳句なり川柳をつくるときに、手書きで書くのと、キーボードで打ち込むのと、スマホで指でなめらかに打ち込んでいくのとではおそらくリズムのとりかたも異なってくるはずです。そのとき、そうした歌や句のハードウェアは定型にどのように相互干渉しあうのかといった問題はおもしろいテーマのようにおもいます。次々と変わってゆくメディアのもとに〈歌う/詠む/書く〉という行為をめぐって音律の吹雪はいかに起動/再起動されるのかという問題。
鉛筆の先のちいさな吹雪かな 渡辺裕子
【もしも新感覚派の横光利一が家電に出会ったら】
最初みたときに〈誤植〉なんじゃないかと思ったくらいのインパクトのある句です。
この「ゆびごほん」がなければ定型としてはきっちり収まりすべてがうまくゆくのに、この「ゆびごほん」があることによって定型が破れるどころか川柳なのかどうかすらも危うくなるような緊張感があります。
この語り手の「指五本」と「ゆびごほん」が隣り合うような意識のモードをみるにはおそらくは「ときどき止まる洗濯機」への指向に手がかりがあるのではないかとおもいます。
語り手が意識しているのは、「動き続ける洗濯機」ではなく、「ときどき止まる洗濯機」です。ここでは半自動的に回りつづける洗濯機のなかにある〈間断〉に語り手の意識がむいています。まとめれば、半自動性のなかに生じる〈切れ目〉です。
「指五本」というのは「手」のことですよね。「手」といわず「指五本」と微分的にみずからの身体をみている語り手の指向に注意してみます。さらにその「指五本」は漢字によって統辞される意味概念としての拘束からも外れ「ゆびごほん」とひらがなでばらばらにされていきます。
洗濯機の回転の切れ目に語り手の意識が向いているのではないかとは述べたんですが、洗濯機の回転の切れ目とは、それはいままでぐるぐるまわりつづけていたわけですから、切れ目といえどそこには遠心力の残響=残像があるはずです。洗濯機の回転が一時的にとまることによって衣服や靴下はかすかに形態を変えながら汚れを抜かれ、またちがった形態で回転していく。
この「指五本ゆびごほん」というのはそうした洗濯機内における残響=残像としてのイメージなのではないかとおもうんです。だからあえて視覚的にあらわすならば「指五本(ゆびごほん)」といったような。
つまりまとめてみると、この句は、洗濯機の運動態の形式を語り手が意識のモードとして応用してみた句ということになるのではないでしょうか。
そこでとらえられているのは、洗濯機といった家電としての機械的リズムが定型というくちびるのリズムと拮抗しあうその瞬間です。
宗教学者の中沢新一さんがおもしろいことをいっていて、定型のリズムとはもともと船をこぐことから起こってるんじゃないかという定型と身体をめぐる興味深い意見を述べているんですが、ではそれならば機械が身近に導入されたわたしたちの生活のなかで機械の音律はどのように定型と拮抗し、侵入し、溶解しあうのだろうかというのは実は興味深いテーマのようにもおもいます。
たとえば、短歌なり俳句なり川柳をつくるときに、手書きで書くのと、キーボードで打ち込むのと、スマホで指でなめらかに打ち込んでいくのとではおそらくリズムのとりかたも異なってくるはずです。そのとき、そうした歌や句のハードウェアは定型にどのように相互干渉しあうのかといった問題はおもしろいテーマのようにおもいます。次々と変わってゆくメディアのもとに〈歌う/詠む/書く〉という行為をめぐって音律の吹雪はいかに起動/再起動されるのかという問題。
鉛筆の先のちいさな吹雪かな 渡辺裕子
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