【感想】鯛焼に危機を感じてゐた吉田 西原天気
- 2015/12/28
- 00:30
鯛焼きに危機を感じてゐた吉田 西原天気
(『はがきハイク』13号・2015年12月)
眼底に焼き付けたまへほら菅井きんそつくりに暮れてゆく街 西原天気
(「かの夏を想へ」『連衆』72号・2015年10月)
世界の意味は世界を超越し、世界は私の意志を超越している。 ウィトゲンシュタイン
トニー滝谷の本当の名前は、トニー滝谷だった。 村上春樹「トニー滝谷」
人は魂を持つことによってのみ語る存在となることができる。我々が言語ゲームに参加し、言葉によって人を動かしたり、動かされたりという「呪術的」とすら呼びうる力を得るのは、単に事物や事態を非人称的に記述するだけでなく、自らを「私」と名乗りそこに参加するからである。「私」と名乗るとは、魂を持つ者と成るということである。魂を持つ者で在るとは、自分の言葉に対し「私の言葉だ」と言ってそれを庇護し、自分の行為に対して「私の行為だ」と言ってそれを引き取る用意があるということである。
鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』
【トニー谷と、トニー滝谷】
〈固有名〉ってなんなのでしょうか。
村上春樹は「トニー滝谷」という中篇をある日、Tシャツ屋さんで「トニー滝谷」と〈固有名〉がプリントされたTシャツをみてそこから物語を書き始めていったそうなんですが、この「トニー滝谷」というお話はなぜか〈空白〉に満ち満ちています。
この物語の最後には妻の死と空白の個室が待ち受けている。
デレク・ジャーマンに『ウィトゲンシュタイン』という映画があります。この映画で大事なのは何よりも映画に〈ウィトゲンシュタイン〉という固有名がついているところにあるんじゃないかとおもうんですよ。
ウィトゲンシュタインはわたしの歯の痛みをあなたはどうして経験することなしに痛いと想像することができるのかということを問題にしていましたが(つまり、言語であれ感覚であれどうしてわたしとあなたは〈孤独〉にならずに〈やりとり〉することができるのか、〈ひとりっきり〉にならないのかという問題)、でも〈固有名〉にだってどうやってひとはその固有名を〈経験〉することができるのかという問題があるはずです。
なぜ、〈固有名〉は孤独にならないのか。「菅井きんそつくりに暮れてゆく」ことがわかってしまうのか。
ちょっと思うのはむしろ事態は〈逆〉なのではないかと思うんですよ。固有名とは経験ではなく、むしろ疎外を引き起こすために用意されているのではないか。
わたしたちはデレク・ジャーマンの『ウィトゲンシュタイン』をみて、こう思うはずです。ウィトゲンシュタインのことは〈よっく〉わかった、でもけっきょくかれが〈なにものか〉はわからなかった。
「吉田」が鯛焼きに危機感を感じていたのはわかった、街が菅井きんそっくりに暮れてゆくのもわかった。でも吉田が〈なにものか〉や、菅井きんが〈なにものか〉はわからない。なぜなら固有名をもっ〈てしまっている〉かれらに対して〈なにものか〉を問いかけてもかれらはこう答えるしかないからです。「吉田/菅井きん」です、と。かれらがかれらであることがわかるのが固有名であり、かれらがなにものかをあらわすことはすでに固有名のオーバーヒートなのです。
「菅井きん」が〈なにものか〉は各人いろいろあると思います。わたしならドラマ「家なき子」の悪いおばあさんであり、黒澤明の映画『どですかでん』にも出てきた女優です。でもそれは「菅井きん」がなにものかをいいあてたことにはならない。
だとしたらわたしたちは固有名を通していつもわかりそうでわかることのできない、〈ぎりぎりの疎外〉に立たされているのではないでしょうか。
その〈ぎりぎりの疎外〉のカラーをそれぞれの固有名がつちかっていく。だから、「菅井きん」は「菅井きん」でありつつ「菅井きん」であることを裏切っていく。人名、ってそういう自己融着性と自己分離性があるようにおもうんですよ。だれも〈なにものか〉は言い当てられないし、言い当てることが固有名の本分ではない。
映画『ウィトゲンシュタイン』の最後において、つるつるした論理の氷原でも、ざらざらした言語の大地にも住むことができないと言って、ウィトゲンシュタインは泣いていました。
じゃあ〈ウィトゲンシュタイン〉はどこにいくのでしょうか。
わたしはかれはこの〈固有名〉が冠されたこの映画自身に住み続けるしかないんじゃないかと思いました。風船につかまりながら、浮かびつづけながら。
ならばカギ括弧に入れて「トニー谷」さあ革命の準備はできた 西原天気
市川準『トニー滝谷』(2004)。この映画とても好きで大学の頃ひまさえあれば繰り返しみていたんですが、イッセー尾形がトニー滝谷の役を演じていて、で、イッセー尾形って〈空白〉の人間を演じるのがとてもうまいんですね(ソクーロフの『太陽』で〈ヒロヒト〉を演じていたのも象徴的です)。で、イッセー尾形はいろんな職業をコントにした一人芝居をずっとやっているひとなんですが(私は旅館ではりきるお父さんのコントが大好きでこれもやはりひまがあると繰り返しみていました)、そういうふうに〈誰にでもなれること〉によってイッセー尾形じしんの〈固有名〉っていうのは実は〈なくなっていっている〉と思うんですよ。こんなにも特徴的な名前なのに。で、トニー滝谷もそうなんだと思うんですよ。芸能史をみていると、トニー谷もたぶんじぶんの〈固有名〉が空白化することを過剰におそれていたひとだったと思うんです。だから実は固有名っていうのはじぶんじしんにとっても把持しがたいものなのではないかとも思う。ひとは一生をかけてじぶんじしんの〈名前〉をほんとうに手に入れることができるのかどうかすらわからないのだから。
(『はがきハイク』13号・2015年12月)
眼底に焼き付けたまへほら菅井きんそつくりに暮れてゆく街 西原天気
(「かの夏を想へ」『連衆』72号・2015年10月)
世界の意味は世界を超越し、世界は私の意志を超越している。 ウィトゲンシュタイン
トニー滝谷の本当の名前は、トニー滝谷だった。 村上春樹「トニー滝谷」
人は魂を持つことによってのみ語る存在となることができる。我々が言語ゲームに参加し、言葉によって人を動かしたり、動かされたりという「呪術的」とすら呼びうる力を得るのは、単に事物や事態を非人称的に記述するだけでなく、自らを「私」と名乗りそこに参加するからである。「私」と名乗るとは、魂を持つ者と成るということである。魂を持つ者で在るとは、自分の言葉に対し「私の言葉だ」と言ってそれを庇護し、自分の行為に対して「私の行為だ」と言ってそれを引き取る用意があるということである。
鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』
【トニー谷と、トニー滝谷】
〈固有名〉ってなんなのでしょうか。
村上春樹は「トニー滝谷」という中篇をある日、Tシャツ屋さんで「トニー滝谷」と〈固有名〉がプリントされたTシャツをみてそこから物語を書き始めていったそうなんですが、この「トニー滝谷」というお話はなぜか〈空白〉に満ち満ちています。
この物語の最後には妻の死と空白の個室が待ち受けている。
デレク・ジャーマンに『ウィトゲンシュタイン』という映画があります。この映画で大事なのは何よりも映画に〈ウィトゲンシュタイン〉という固有名がついているところにあるんじゃないかとおもうんですよ。
ウィトゲンシュタインはわたしの歯の痛みをあなたはどうして経験することなしに痛いと想像することができるのかということを問題にしていましたが(つまり、言語であれ感覚であれどうしてわたしとあなたは〈孤独〉にならずに〈やりとり〉することができるのか、〈ひとりっきり〉にならないのかという問題)、でも〈固有名〉にだってどうやってひとはその固有名を〈経験〉することができるのかという問題があるはずです。
なぜ、〈固有名〉は孤独にならないのか。「菅井きんそつくりに暮れてゆく」ことがわかってしまうのか。
ちょっと思うのはむしろ事態は〈逆〉なのではないかと思うんですよ。固有名とは経験ではなく、むしろ疎外を引き起こすために用意されているのではないか。
わたしたちはデレク・ジャーマンの『ウィトゲンシュタイン』をみて、こう思うはずです。ウィトゲンシュタインのことは〈よっく〉わかった、でもけっきょくかれが〈なにものか〉はわからなかった。
「吉田」が鯛焼きに危機感を感じていたのはわかった、街が菅井きんそっくりに暮れてゆくのもわかった。でも吉田が〈なにものか〉や、菅井きんが〈なにものか〉はわからない。なぜなら固有名をもっ〈てしまっている〉かれらに対して〈なにものか〉を問いかけてもかれらはこう答えるしかないからです。「吉田/菅井きん」です、と。かれらがかれらであることがわかるのが固有名であり、かれらがなにものかをあらわすことはすでに固有名のオーバーヒートなのです。
「菅井きん」が〈なにものか〉は各人いろいろあると思います。わたしならドラマ「家なき子」の悪いおばあさんであり、黒澤明の映画『どですかでん』にも出てきた女優です。でもそれは「菅井きん」がなにものかをいいあてたことにはならない。
だとしたらわたしたちは固有名を通していつもわかりそうでわかることのできない、〈ぎりぎりの疎外〉に立たされているのではないでしょうか。
その〈ぎりぎりの疎外〉のカラーをそれぞれの固有名がつちかっていく。だから、「菅井きん」は「菅井きん」でありつつ「菅井きん」であることを裏切っていく。人名、ってそういう自己融着性と自己分離性があるようにおもうんですよ。だれも〈なにものか〉は言い当てられないし、言い当てることが固有名の本分ではない。
映画『ウィトゲンシュタイン』の最後において、つるつるした論理の氷原でも、ざらざらした言語の大地にも住むことができないと言って、ウィトゲンシュタインは泣いていました。
じゃあ〈ウィトゲンシュタイン〉はどこにいくのでしょうか。
わたしはかれはこの〈固有名〉が冠されたこの映画自身に住み続けるしかないんじゃないかと思いました。風船につかまりながら、浮かびつづけながら。
ならばカギ括弧に入れて「トニー谷」さあ革命の準備はできた 西原天気
市川準『トニー滝谷』(2004)。この映画とても好きで大学の頃ひまさえあれば繰り返しみていたんですが、イッセー尾形がトニー滝谷の役を演じていて、で、イッセー尾形って〈空白〉の人間を演じるのがとてもうまいんですね(ソクーロフの『太陽』で〈ヒロヒト〉を演じていたのも象徴的です)。で、イッセー尾形はいろんな職業をコントにした一人芝居をずっとやっているひとなんですが(私は旅館ではりきるお父さんのコントが大好きでこれもやはりひまがあると繰り返しみていました)、そういうふうに〈誰にでもなれること〉によってイッセー尾形じしんの〈固有名〉っていうのは実は〈なくなっていっている〉と思うんですよ。こんなにも特徴的な名前なのに。で、トニー滝谷もそうなんだと思うんですよ。芸能史をみていると、トニー谷もたぶんじぶんの〈固有名〉が空白化することを過剰におそれていたひとだったと思うんです。だから実は固有名っていうのはじぶんじしんにとっても把持しがたいものなのではないかとも思う。ひとは一生をかけてじぶんじしんの〈名前〉をほんとうに手に入れることができるのかどうかすらわからないのだから。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の俳句感想