【ふしぎな川柳 第五十二夜】遠い隣人-小池正博-
- 2015/12/28
- 11:42
もみがらの中で手首を握りあう 小池正博
巻尺ではかれる距離にいつもいる 〃
【愛をめぐるオマツリ男爵の孤島】
石田柊馬さんが小池さんの句集『水牛の余波』のタイトルのなかにある〈遠近の構造〉についてたしか指摘されていて(水面に石を投げて波紋をみているとわかるけれど「余波」っていうのは〈近さ〉と〈遠さ〉の交響ですね)、で、その〈遠近の構造〉から小池さんの句についても解説されていたんですが、それって面白いなと思ってですね、小池さんの句にはうえにみられるように〈ふしぎな距離感〉があります。
「手首を握りあう」や「いつもいる」っていうのは〈親密圏〉っていうか、すごく親しい、密接な距離ですよね。手じゃなくて手首というのはセクシャルでもあるし、「いつもいる」というのもともすれば甘い言葉としての定型文句になってしまいそうなフレーズでもある。
ところがこれら親密な距離感のあいだに「もみがら」や「巻尺」があるのがとっても特徴的なんですよね。柊馬さんの指摘に沿っていえば、〈近いんだか遠いんだか〉ということになると思います。
たとえば日常会話で愛のことばとして使ってみるとわかると思います。「巻尺ではかれる距離にいつもいるからね」って相手に真摯に言えば、相手は「はあ?」ってなる。「巻尺」がどうしたってじゃまをしてくる。どうしてかっていうと、「いつもいる」って全的な抽象的なアバウトなフレーズなのに、「巻尺」という具体性が愛のじゃまをしてくる。愛っていうのは実は〈具体性〉がじゃまをしてくる。「三日間愛するよ」っていったら「はあ?」って思われますよね。愛のことばは全的でなければならない。「死ぬまで愛するよ」とかです。
「もみがら」も密接な距離感にノイズをはさむものとしてある。どうしてかっていうと、語り手はもしかしたら、相手そのものではなくて、「もみがらの中で手首を握りあう」行為そのものの方に関心を見出しているかもしれないから。「もみがらの中で」とシーンを記述してしまうのはそういうベクトルをつくってしまうことになる。
つまり、語り手は愛を語ろうとして、愛から逸脱してしまっている。まるで愛の〈余波〉のほうに関心をみいだしてしまっているのです。
で、さいきん、中山奈々さんのポケモンと季語を組み合わせた俳句をみたときに、こうした〈余波〉のありかたって季語にもあらわれているんではないかとおもったんです。ポケモンを季語がずらしてしまう、というか、ポケモンと季語それぞれから波紋がでてくる。そうすると読者はどこに〈余波〉をみるかをかんがえることになる。松尾芭蕉のあの句ももしかしたら〈余波への意識〉の句だったのかもしれない。
ポケモンの進化ばつちり蔦茂る 中山奈々
古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
細田守『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』(2004)。細田守監督がつくった異色ワンピース映画なんですが、テーマが〈死を生きる〉とはどういうことかというたいへん暗いテーマになっています。ただ実をいえば、『時をかける少女』も『サマーウォーズ』も〈死を生きる〉とはどういうことなのかっていうのがテーマとしてあったと思うんですよ。で、問題は語りのベクトルによってONE PIECEという国民マンガだろうともまったく違ったカラーになってしまうんだということだと思います。ONE PIECEを語ろうとしてONE PIECEから逸れていってしまうひともいる。愛を語ろうとして愛を逸れる。その〈逸れ方〉そのものが表現になっていくときがある。
巻尺ではかれる距離にいつもいる 〃
【愛をめぐるオマツリ男爵の孤島】
石田柊馬さんが小池さんの句集『水牛の余波』のタイトルのなかにある〈遠近の構造〉についてたしか指摘されていて(水面に石を投げて波紋をみているとわかるけれど「余波」っていうのは〈近さ〉と〈遠さ〉の交響ですね)、で、その〈遠近の構造〉から小池さんの句についても解説されていたんですが、それって面白いなと思ってですね、小池さんの句にはうえにみられるように〈ふしぎな距離感〉があります。
「手首を握りあう」や「いつもいる」っていうのは〈親密圏〉っていうか、すごく親しい、密接な距離ですよね。手じゃなくて手首というのはセクシャルでもあるし、「いつもいる」というのもともすれば甘い言葉としての定型文句になってしまいそうなフレーズでもある。
ところがこれら親密な距離感のあいだに「もみがら」や「巻尺」があるのがとっても特徴的なんですよね。柊馬さんの指摘に沿っていえば、〈近いんだか遠いんだか〉ということになると思います。
たとえば日常会話で愛のことばとして使ってみるとわかると思います。「巻尺ではかれる距離にいつもいるからね」って相手に真摯に言えば、相手は「はあ?」ってなる。「巻尺」がどうしたってじゃまをしてくる。どうしてかっていうと、「いつもいる」って全的な抽象的なアバウトなフレーズなのに、「巻尺」という具体性が愛のじゃまをしてくる。愛っていうのは実は〈具体性〉がじゃまをしてくる。「三日間愛するよ」っていったら「はあ?」って思われますよね。愛のことばは全的でなければならない。「死ぬまで愛するよ」とかです。
「もみがら」も密接な距離感にノイズをはさむものとしてある。どうしてかっていうと、語り手はもしかしたら、相手そのものではなくて、「もみがらの中で手首を握りあう」行為そのものの方に関心を見出しているかもしれないから。「もみがらの中で」とシーンを記述してしまうのはそういうベクトルをつくってしまうことになる。
つまり、語り手は愛を語ろうとして、愛から逸脱してしまっている。まるで愛の〈余波〉のほうに関心をみいだしてしまっているのです。
で、さいきん、中山奈々さんのポケモンと季語を組み合わせた俳句をみたときに、こうした〈余波〉のありかたって季語にもあらわれているんではないかとおもったんです。ポケモンを季語がずらしてしまう、というか、ポケモンと季語それぞれから波紋がでてくる。そうすると読者はどこに〈余波〉をみるかをかんがえることになる。松尾芭蕉のあの句ももしかしたら〈余波への意識〉の句だったのかもしれない。
ポケモンの進化ばつちり蔦茂る 中山奈々
古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
細田守『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』(2004)。細田守監督がつくった異色ワンピース映画なんですが、テーマが〈死を生きる〉とはどういうことかというたいへん暗いテーマになっています。ただ実をいえば、『時をかける少女』も『サマーウォーズ』も〈死を生きる〉とはどういうことなのかっていうのがテーマとしてあったと思うんですよ。で、問題は語りのベクトルによってONE PIECEという国民マンガだろうともまったく違ったカラーになってしまうんだということだと思います。ONE PIECEを語ろうとしてONE PIECEから逸れていってしまうひともいる。愛を語ろうとして愛を逸れる。その〈逸れ方〉そのものが表現になっていくときがある。
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