【ふしぎな川柳 第五十三夜】今は反省している-吉田健治と菊地俊太郎ー
- 2015/12/28
- 12:20
だまって森の樹のボタンをはずしてきた 吉田健治
あまり静かなので骨壺を揺する 菊地俊太郎
【くちびるから散弾銃】
川柳ってときどき、おいそれはやっちゃいけないだろう、っていうことを〈する〉んですよ。
たとえば「だまって森の樹のボタンをはずして」くるとかですね、あまりにも「静かなので骨壺を揺する」とかですね、なんだかそうしたい気もちもわからないではないけれどやっちゃダメだろうということを、してしまう。
だから〈してしまう〉文芸なんですよね、川柳って。
「だまって」って語り手がちゃんと自己申告しているように、どこかでそれをやっちゃいけない、しちゃだめなんだってことはわかっている。でも、してしまう。
〈笑い〉とか〈ユーモア〉って実は禁忌を破るしゅんかんにうまれるときがありますよね。誰もがわかっている構図や図式や様態を指摘したしゅんかん、笑いが起こる。そういう沈黙のコードが崩れたしゅんかん、笑いっておこります。でもそれは紙一重ですよね、まったくおなじ構造に、〈犯罪〉もあるわけですから。法というコードをやぶったしゅんかん、〈罪〉がうまれる。
だからよく〈笑い死に〉って言い方ってちょっと意味深でもあるとおもうんです。〈笑い〉+〈死ぬ〉が融合している。なにかがやぶれている。〈泣き死に〉とか〈かなしみ死に〉とかはないけれど、〈笑い〉っていうのは禁忌の破砕がある。「マシンガントーク」という言い方もありますよね。たしかウディ・アレンがそこらへんを指摘していたとおもいます。彼の映画にも笑いと死の融合がおおい。川柳、にも。
遺体は死体よりも明るい 普川素床
ウディ・アレン『ウディ・アレンの愛と死』(1975)。ウディ・アレンが有名なドストエフスキーやトルストイなどのロシア文学をパロディー化してつくりあげた映画です。ドストエフスキーは実は笑って読むものだ、マンガ的戯作的だといわれたりもしますが、この映画をみると過剰なドストエフスキー的深刻さは実はギャグの形態に近かったりもするのではないかとわかってくるのではないかと思います。たぶんこのライトな深刻さをずっとそれからも映画で問い続けていたのがウディ・アレンだったんじゃないかと思います。
あまり静かなので骨壺を揺する 菊地俊太郎
【くちびるから散弾銃】
川柳ってときどき、おいそれはやっちゃいけないだろう、っていうことを〈する〉んですよ。
たとえば「だまって森の樹のボタンをはずして」くるとかですね、あまりにも「静かなので骨壺を揺する」とかですね、なんだかそうしたい気もちもわからないではないけれどやっちゃダメだろうということを、してしまう。
だから〈してしまう〉文芸なんですよね、川柳って。
「だまって」って語り手がちゃんと自己申告しているように、どこかでそれをやっちゃいけない、しちゃだめなんだってことはわかっている。でも、してしまう。
〈笑い〉とか〈ユーモア〉って実は禁忌を破るしゅんかんにうまれるときがありますよね。誰もがわかっている構図や図式や様態を指摘したしゅんかん、笑いが起こる。そういう沈黙のコードが崩れたしゅんかん、笑いっておこります。でもそれは紙一重ですよね、まったくおなじ構造に、〈犯罪〉もあるわけですから。法というコードをやぶったしゅんかん、〈罪〉がうまれる。
だからよく〈笑い死に〉って言い方ってちょっと意味深でもあるとおもうんです。〈笑い〉+〈死ぬ〉が融合している。なにかがやぶれている。〈泣き死に〉とか〈かなしみ死に〉とかはないけれど、〈笑い〉っていうのは禁忌の破砕がある。「マシンガントーク」という言い方もありますよね。たしかウディ・アレンがそこらへんを指摘していたとおもいます。彼の映画にも笑いと死の融合がおおい。川柳、にも。
遺体は死体よりも明るい 普川素床
ウディ・アレン『ウディ・アレンの愛と死』(1975)。ウディ・アレンが有名なドストエフスキーやトルストイなどのロシア文学をパロディー化してつくりあげた映画です。ドストエフスキーは実は笑って読むものだ、マンガ的戯作的だといわれたりもしますが、この映画をみると過剰なドストエフスキー的深刻さは実はギャグの形態に近かったりもするのではないかとわかってくるのではないかと思います。たぶんこのライトな深刻さをずっとそれからも映画で問い続けていたのがウディ・アレンだったんじゃないかと思います。
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