【感想】せんせいの指が砂場のトンネルを崩していくねひいらああいいて 加藤治郎
- 2015/12/28
- 13:00
せんせいの指が砂場のトンネルを崩していくねひいらああいいて 加藤治郎
グールドの立場からすれば、音楽というのは構造や仕掛けを徹底的に理解し、しゃぶり尽くして、初めて弾いた、聴いたということになる。それはむろん一回生で聴いてわかるわけがないのです。たとえば《ゴルトベルク変奏曲》の第七変奏はどうなっているか。第八変奏は? 第九変奏は? グールドはそれだからライヴは虚しいと感じるようになったのです。だからよい演奏を録音で繰り返し聴く。それ以外に実のある音楽の実のある鑑賞は成立しない。ありえない。そのためにはLPだって本当は不完全だ。トラックに全部分けて「ここでこうなって」と楽譜を見て演奏して、それを繰り返し繰り返し聴いて初めてわかる。それが音楽の鑑賞なんだと。ライヴはあんまり意味がない。
片山杜秀『クラシックの核心』
【グレン・グールドと加藤治郎】
いまだに加藤治郎さんの短歌って読んでいてもわからないものがたくさんあるんですが、さいきん片山さんがグールドについて語っているのを読んだときに、グールドがコンサートを毛嫌いして録音を好んだというエピソードは有名だけれどこのデジタル志向のありかたってちょっと加藤さんの短歌に通じるものがあるのではないかとおもったんです。
グールドは何回も何回も前からうしろから早送りし止め巻き戻し多重に精緻に鑑賞されるためにデジタルを好んだと。実際、チャプター志向というか、CDやDVDがあらわれることによってトラックやチャプターがうまれましたよね。トラックやチャプターがうまれるっていうのはどういうことかというと、〈構造的な鑑賞〉ができるようになるってことなんです。
たとえばわたしはよくやるんだけれども、映画を後ろからみていこうとか、最後のチャプターだけみようとか、最初と最後のチャプターだけみようとか、そういう構造的な鑑賞のありかたです(漱石の『草枕』に出てくる読書法に似ています。そういえば、グレン・グールドは『草枕』を愛読していましたね)。
で、そういう一方向の進行ベクトルではなくて、いったりもどったりするベクトルのいりみだれがデジタル志向だというふうにいってみることにします。加藤さんの短歌はうえにあげたもののように〈よくわからない〉ものがあるんでが、それでももう一度あたまから読んだり分解したりゆっくり読んだりすこし早送りして読んだりするとわかってくる部分もある。たとえば、ああこれは「むすんでひらいて」の歌がスローで引用されているんだな、とか。でもそれがなんでスローで引用されているのかはまたこの歌をいったりきたりして考えなければならない。
つまり、この歌は、デジタルな鑑賞法を求めてきているのではないかと思うんですね。歌自体のなかにいくつかチャプターがあって、分割されたうえで、オーディエンスはいったりきたりしながら解読していく。
で、マンガの世界にもそういうのがあって、たとえば80年代初頭の大友克洋や高野文子さんはマンガのニューウェーブと呼ばれましたが(90年代初頭の短歌のニューウェーブとは10年くらい離れている)、やっぱり緻密な書き込みや不安定な構図のせいでいったりきたりして自分でチャプター化して読んでいかないと〈よくわからないマンガ〉なんです。これは岡田斗司夫さんがマンガ夜話でビデオテープ鑑賞(早送りしたり巻き戻ししたり)の普及と関連づけられていましたが、そういうデジタルの鑑賞のありかたがフィードバックされて、表現の立て方に及んでくることはあるように思うんですよ。
だからグールドがなんどもなんども録音をきけといったように加藤さんの短歌もなんどもなんども短歌を読み直して、どういうことなんだろうと考え続ける短歌になっている。すっとはいる短歌ではなく、ずっとのけぞる短歌になっている。だから25年たっても「おひゃいとおぶろ」をどう分節するか、とか読み手はかんがえる。よくわからないけれど、なにかきになる。じゃあデジタル技術の発達とともにもうあと25年くらいは考えてみようとか。
あたらしい薪に薪こすられて火の粉はのぼるおひゃいとおぶろ 加藤治郎
ジラール『グレン・グールドをめぐる32章』(1994)。大学の頃に、グールドのバッハとカザルスのバッハはすごくよく聴いていたんですよ。あとリヒターとガーディナーのそれぞれのバッハも。クレーメルのバッハもムジカアンティカケルンのバッハも。ただやっぱりグールドだけが依然として強烈に印象に残っていて、やっぱり録音のなかに、う"ーう"ーって歌声が入ってるのは異様なわけです。片山さんの話を読んでも、うなり声=歌い声ははノイズになんないのかなって思ってしまう。グールドって録音に〈不向き〉なひとでもあったと思うんですよ。歌ってしまうから。でも三鷹でラドゥ・ルプのピアノを聴きにいったときに、ルプも歌ってたんですよね。ああ歌っているなと思った。だとしたらそういうピアノと身体との境界ってどこにおいてるんだろうって思うんですよね。
グールドの立場からすれば、音楽というのは構造や仕掛けを徹底的に理解し、しゃぶり尽くして、初めて弾いた、聴いたということになる。それはむろん一回生で聴いてわかるわけがないのです。たとえば《ゴルトベルク変奏曲》の第七変奏はどうなっているか。第八変奏は? 第九変奏は? グールドはそれだからライヴは虚しいと感じるようになったのです。だからよい演奏を録音で繰り返し聴く。それ以外に実のある音楽の実のある鑑賞は成立しない。ありえない。そのためにはLPだって本当は不完全だ。トラックに全部分けて「ここでこうなって」と楽譜を見て演奏して、それを繰り返し繰り返し聴いて初めてわかる。それが音楽の鑑賞なんだと。ライヴはあんまり意味がない。
片山杜秀『クラシックの核心』
【グレン・グールドと加藤治郎】
いまだに加藤治郎さんの短歌って読んでいてもわからないものがたくさんあるんですが、さいきん片山さんがグールドについて語っているのを読んだときに、グールドがコンサートを毛嫌いして録音を好んだというエピソードは有名だけれどこのデジタル志向のありかたってちょっと加藤さんの短歌に通じるものがあるのではないかとおもったんです。
グールドは何回も何回も前からうしろから早送りし止め巻き戻し多重に精緻に鑑賞されるためにデジタルを好んだと。実際、チャプター志向というか、CDやDVDがあらわれることによってトラックやチャプターがうまれましたよね。トラックやチャプターがうまれるっていうのはどういうことかというと、〈構造的な鑑賞〉ができるようになるってことなんです。
たとえばわたしはよくやるんだけれども、映画を後ろからみていこうとか、最後のチャプターだけみようとか、最初と最後のチャプターだけみようとか、そういう構造的な鑑賞のありかたです(漱石の『草枕』に出てくる読書法に似ています。そういえば、グレン・グールドは『草枕』を愛読していましたね)。
で、そういう一方向の進行ベクトルではなくて、いったりもどったりするベクトルのいりみだれがデジタル志向だというふうにいってみることにします。加藤さんの短歌はうえにあげたもののように〈よくわからない〉ものがあるんでが、それでももう一度あたまから読んだり分解したりゆっくり読んだりすこし早送りして読んだりするとわかってくる部分もある。たとえば、ああこれは「むすんでひらいて」の歌がスローで引用されているんだな、とか。でもそれがなんでスローで引用されているのかはまたこの歌をいったりきたりして考えなければならない。
つまり、この歌は、デジタルな鑑賞法を求めてきているのではないかと思うんですね。歌自体のなかにいくつかチャプターがあって、分割されたうえで、オーディエンスはいったりきたりしながら解読していく。
で、マンガの世界にもそういうのがあって、たとえば80年代初頭の大友克洋や高野文子さんはマンガのニューウェーブと呼ばれましたが(90年代初頭の短歌のニューウェーブとは10年くらい離れている)、やっぱり緻密な書き込みや不安定な構図のせいでいったりきたりして自分でチャプター化して読んでいかないと〈よくわからないマンガ〉なんです。これは岡田斗司夫さんがマンガ夜話でビデオテープ鑑賞(早送りしたり巻き戻ししたり)の普及と関連づけられていましたが、そういうデジタルの鑑賞のありかたがフィードバックされて、表現の立て方に及んでくることはあるように思うんですよ。
だからグールドがなんどもなんども録音をきけといったように加藤さんの短歌もなんどもなんども短歌を読み直して、どういうことなんだろうと考え続ける短歌になっている。すっとはいる短歌ではなく、ずっとのけぞる短歌になっている。だから25年たっても「おひゃいとおぶろ」をどう分節するか、とか読み手はかんがえる。よくわからないけれど、なにかきになる。じゃあデジタル技術の発達とともにもうあと25年くらいは考えてみようとか。
あたらしい薪に薪こすられて火の粉はのぼるおひゃいとおぶろ 加藤治郎
ジラール『グレン・グールドをめぐる32章』(1994)。大学の頃に、グールドのバッハとカザルスのバッハはすごくよく聴いていたんですよ。あとリヒターとガーディナーのそれぞれのバッハも。クレーメルのバッハもムジカアンティカケルンのバッハも。ただやっぱりグールドだけが依然として強烈に印象に残っていて、やっぱり録音のなかに、う"ーう"ーって歌声が入ってるのは異様なわけです。片山さんの話を読んでも、うなり声=歌い声ははノイズになんないのかなって思ってしまう。グールドって録音に〈不向き〉なひとでもあったと思うんですよ。歌ってしまうから。でも三鷹でラドゥ・ルプのピアノを聴きにいったときに、ルプも歌ってたんですよね。ああ歌っているなと思った。だとしたらそういうピアノと身体との境界ってどこにおいてるんだろうって思うんですよね。
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