【感想】暗黒としての去年今年-二股・腸・燃料棒-
- 2016/01/01
- 18:45
去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子
二股の道の暗黒去年今年 関悦史
消化器のひとつながりに去年今年 西原天気
とりだせぬ燃料棒や去年今年 小澤實
あれこれコードの中を電気の去年今年 池田澄子
ずっと〈去年今年〉という季語を空恐ろしく思ってきた。多くの季語は、繰り返す四季という“歳時記的不変”の中にあるのに対し、〈去年今年〉は、時間はたちまち過ぎて決して戻らないという“時間の流れの速さ”をピシャリと突きつける季語だからだ 相子智恵『裏「週刊俳句」』2013年1月7日
【ぐにゃぐにゃしている暗黒棒】
〈去年今年〉って季語に賭けられているものが、だんだんと〈貫けない危機としての棒〉になってきているんじゃないかとおもうんですよ。
虚子にあったのは、去年と今年の時間のアクロバティックなしゅんかんを〈貫通する棒〉だったんだけれど、関さんの二股の道や西原さんの消火器、小澤さんの燃料棒や池田さんの電気をみるとその質感が変わってきているのではないか。
消火器はもちろん「ひとつながり」なんだけれどもそれが身体である以上、いつどうなるかはわかりませんよね。「棒の如」く貫通しているものではない。「電気」も2011年を通過してみると、その「電気」という言葉じたいに危機感のニュアンスが〈いま〉の地点からこの俳句をあえて読むとどうしても付随してしまうようにも思う。「電気」ってある日とつぜんなくなってもおかしくない存在だったわけですよ。去年今年を実は貫けないものでもあった。
「去年今年」というニュアンスの危機感というか、〈貫通できていた〉はずのものが、ほんとうにこれからも〈貫通できるのか〉といったニュアンスにもなっているようなきがするんです。それこそ、〈暗黒〉の〈棒〉というか。
関さんの「二股」のようにそれは裂けたものとしてある。裂けたものとしてあるんだけれど、二股恋愛がたぶんそうなるように、それらは裂けたものとして、弁証も止揚もできないかたちで、次の時間へと繰り越していかなければいけない。二股恋愛って弁証法的止揚や反=合一がどうしたってできない恋愛だとおもうんです。
それでも相子さんが言うように、時間は速度をあげて過ぎ去ってしまう。
だとしたら、2016年の〈棒〉はどこにむかうのか。ブラック・ボックスのなかなのか。
箱に顔突つ込んでゐる去年今年 矢野玲奈
原田眞人『魍魎の匣』(2007)。京極夏彦が描く身体っていつも不在なんですよね。〈貫く〉身体ではなくて、どこかにいってしまう身体です。どこかにはいってしまうんだけれども、でも〈ここ〉にいる。身体がないのに、まだ〈ここ〉にいるということ、それが京極夏彦の小説における〈妖怪〉の正体だとおもうんですよ。でもそのことは匣に顔をつっこんでみるかぎりわからないけれど、でも匣に顔をつっこんだしゅんかん、それが匣だということも忘れて世界そのものだと思ってしまうこともある。そもそも、匣の外部はどこにあるのか。魍魎とはたしか境界という意味をもっていたような気もするんですが、そういう誰が時間の貫通するここを決めるのかということも京極夏彦の世界では問われているように思う。
二股の道の暗黒去年今年 関悦史
消化器のひとつながりに去年今年 西原天気
とりだせぬ燃料棒や去年今年 小澤實
あれこれコードの中を電気の去年今年 池田澄子
ずっと〈去年今年〉という季語を空恐ろしく思ってきた。多くの季語は、繰り返す四季という“歳時記的不変”の中にあるのに対し、〈去年今年〉は、時間はたちまち過ぎて決して戻らないという“時間の流れの速さ”をピシャリと突きつける季語だからだ 相子智恵『裏「週刊俳句」』2013年1月7日
【ぐにゃぐにゃしている暗黒棒】
〈去年今年〉って季語に賭けられているものが、だんだんと〈貫けない危機としての棒〉になってきているんじゃないかとおもうんですよ。
虚子にあったのは、去年と今年の時間のアクロバティックなしゅんかんを〈貫通する棒〉だったんだけれど、関さんの二股の道や西原さんの消火器、小澤さんの燃料棒や池田さんの電気をみるとその質感が変わってきているのではないか。
消火器はもちろん「ひとつながり」なんだけれどもそれが身体である以上、いつどうなるかはわかりませんよね。「棒の如」く貫通しているものではない。「電気」も2011年を通過してみると、その「電気」という言葉じたいに危機感のニュアンスが〈いま〉の地点からこの俳句をあえて読むとどうしても付随してしまうようにも思う。「電気」ってある日とつぜんなくなってもおかしくない存在だったわけですよ。去年今年を実は貫けないものでもあった。
「去年今年」というニュアンスの危機感というか、〈貫通できていた〉はずのものが、ほんとうにこれからも〈貫通できるのか〉といったニュアンスにもなっているようなきがするんです。それこそ、〈暗黒〉の〈棒〉というか。
関さんの「二股」のようにそれは裂けたものとしてある。裂けたものとしてあるんだけれど、二股恋愛がたぶんそうなるように、それらは裂けたものとして、弁証も止揚もできないかたちで、次の時間へと繰り越していかなければいけない。二股恋愛って弁証法的止揚や反=合一がどうしたってできない恋愛だとおもうんです。
それでも相子さんが言うように、時間は速度をあげて過ぎ去ってしまう。
だとしたら、2016年の〈棒〉はどこにむかうのか。ブラック・ボックスのなかなのか。
箱に顔突つ込んでゐる去年今年 矢野玲奈
原田眞人『魍魎の匣』(2007)。京極夏彦が描く身体っていつも不在なんですよね。〈貫く〉身体ではなくて、どこかにいってしまう身体です。どこかにはいってしまうんだけれども、でも〈ここ〉にいる。身体がないのに、まだ〈ここ〉にいるということ、それが京極夏彦の小説における〈妖怪〉の正体だとおもうんですよ。でもそのことは匣に顔をつっこんでみるかぎりわからないけれど、でも匣に顔をつっこんだしゅんかん、それが匣だということも忘れて世界そのものだと思ってしまうこともある。そもそも、匣の外部はどこにあるのか。魍魎とはたしか境界という意味をもっていたような気もするんですが、そういう誰が時間の貫通するここを決めるのかということも京極夏彦の世界では問われているように思う。
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