【感想】えんぴつは書きたい鳥は生まれたい なかはられいこ
- 2014/07/08
- 08:59
えんぴつは書きたい鳥は生まれたい なかはられいこ
【なかはられいこ・大島弓子・谷山浩子のバスに乗って】
漫画家の大島弓子さんが歌詞を書いている谷山浩子さんの歌で、「鳥は鳥に」っていうふしぎなうたがあるんです。
少しずつおとなになる 悲しみをかぞえるたびに
鳥には鳥の名前がある 鳥は知らない私の名前
いつの日かみんなひとつになれるまで
鳥は鳥に 人は人に それぞれの時
いつのまにおぼえていた 背中をなでるこんな淋しさ
抱きしめるあなたの手がわたしの手ではないということ
作曲 谷山浩子/作詞 大島弓子「鳥は鳥に」
このような歌なんですが、この歌のテーマを自分なりにことばにしてみるならば、それは「わたしはあなたではないんだというさびしさ」だと思うんですね。
この歌のなかの語り手は、たとえば自分が抱きしめられているときに、きもちいいな、とか、あったかいな、ではなくて、このわたしを抱きしめているあなたの手がわたしの手ではないんだな、っていうわたしとあなたの厳格な差異について思いを馳せているんですね。とくに抱きしめられるという一体感のなかで一体感を感じていないというのがポイントだとおもいます。なぜならこの語り手がいちばん志向しているのは「いつの日かみんなひとつになれる」ことだからです。それはおそらく抱擁によって感覚的に一体になることではなくて、厳密に〈ひとつ〉になるということなのではないかとおもうんですね。これはかんがえてみるとけっこうこわいことです。わたしの手とあなたの手の差異がなくなるような「いつの日か」とはある意味、〈死〉しかないので。
で、少し冒険的な読みの可能性として、この歌の場所から、なかはらさんの上記の句を読んでみるとどういうことがいえるんだろうということをかんがえてみたいと思います。
まず「えんぴつは書きたい鳥は生まれたい」という句は、「えんぴつは書きたい」と「鳥は生まれたい」のふたつの差異が対比されることによって成り立っている句だとおもいます。係助詞「は」は、話題をとつぜん提示できる機能をもっていますが(例;おじいさんは山に芝刈りに行きました。おばあさんは川に洗濯に行きました)、ここでは「えんぴつ」と「鳥」の話題がふたつ、対になって語られています。しかも「書くえんぴつ」と「生まれている鳥」というそれぞれがすでに内包している属性を述語として取り出し再帰的に描写しているのも特徴的です。つまりうらがえせば、この「えんぴつ」は書くことができない「えんぴつ」であり、この「鳥」は「生まれ」ることができなかった「鳥」ということになります。だからこの句というのは、二回の差異と挫折が含まれています。
まずひとつめは、「えんぴつ」は「鳥」ではなかったということ。「鳥」は「えんぴつ」ではなかったということ。という、種としての差異=挫折。
ふたつめは、「えんぴつ」は書ける「えんぴつ」ではなかったということ。「鳥」は「生まれ」た「鳥」ではなかったということ。という、属性としての差異=挫折。
ところがです。大島弓子さんの歌の語り手が「いつの日かみんなひとつになれる」ことを願っていたように、この句も定型という生のメディアを介することによってちがった生の位相をもたらしてきます。
つまり五七五の定型でこの句をみればこういうことになります。
えんぴつは、書きたい鳥は、生まれたい
「えんぴつ」と「鳥」というふたつの主格=種・属が、「生まれたい」という述語で述語統合されるという、そうした一体としての「生」へのベクトルを含んだ句であるのがこの句のもうひとつの位相だとおもうんです。
だから大島弓子さんの描いた「鳥は鳥に」からなかはらさんの川柳を読んでみたときに、定型を介することによってまったく逆の生の位相を導き出すのがこの「えんぴつは書きたい鳥は生まれたい」という句の奥行きなのではないかとおもうんですね。
もちろん、この句は単体として解釈できるものであり、また『脱衣場のアリス』という句集という連のなかで読むべき句かもしれません。
しかし、たとえばやはりおなじ『脱衣場のアリス』に収録されている次のような句からこの大島弓子さんの歌詞をコンテクストに読解してみたいと思うのは、ひとつのこころみとしてありなのではないかとおもうのです。なぜなら、実際この句集の語り手は「大島弓子」を通過=媒介したときがあったのですから。すなわち、
バスはいま大島弓子を通過する なかはられいこ
大島弓子『綿の国星』
【なかはられいこ・大島弓子・谷山浩子のバスに乗って】
漫画家の大島弓子さんが歌詞を書いている谷山浩子さんの歌で、「鳥は鳥に」っていうふしぎなうたがあるんです。
少しずつおとなになる 悲しみをかぞえるたびに
鳥には鳥の名前がある 鳥は知らない私の名前
いつの日かみんなひとつになれるまで
鳥は鳥に 人は人に それぞれの時
いつのまにおぼえていた 背中をなでるこんな淋しさ
抱きしめるあなたの手がわたしの手ではないということ
作曲 谷山浩子/作詞 大島弓子「鳥は鳥に」
このような歌なんですが、この歌のテーマを自分なりにことばにしてみるならば、それは「わたしはあなたではないんだというさびしさ」だと思うんですね。
この歌のなかの語り手は、たとえば自分が抱きしめられているときに、きもちいいな、とか、あったかいな、ではなくて、このわたしを抱きしめているあなたの手がわたしの手ではないんだな、っていうわたしとあなたの厳格な差異について思いを馳せているんですね。とくに抱きしめられるという一体感のなかで一体感を感じていないというのがポイントだとおもいます。なぜならこの語り手がいちばん志向しているのは「いつの日かみんなひとつになれる」ことだからです。それはおそらく抱擁によって感覚的に一体になることではなくて、厳密に〈ひとつ〉になるということなのではないかとおもうんですね。これはかんがえてみるとけっこうこわいことです。わたしの手とあなたの手の差異がなくなるような「いつの日か」とはある意味、〈死〉しかないので。
で、少し冒険的な読みの可能性として、この歌の場所から、なかはらさんの上記の句を読んでみるとどういうことがいえるんだろうということをかんがえてみたいと思います。
まず「えんぴつは書きたい鳥は生まれたい」という句は、「えんぴつは書きたい」と「鳥は生まれたい」のふたつの差異が対比されることによって成り立っている句だとおもいます。係助詞「は」は、話題をとつぜん提示できる機能をもっていますが(例;おじいさんは山に芝刈りに行きました。おばあさんは川に洗濯に行きました)、ここでは「えんぴつ」と「鳥」の話題がふたつ、対になって語られています。しかも「書くえんぴつ」と「生まれている鳥」というそれぞれがすでに内包している属性を述語として取り出し再帰的に描写しているのも特徴的です。つまりうらがえせば、この「えんぴつ」は書くことができない「えんぴつ」であり、この「鳥」は「生まれ」ることができなかった「鳥」ということになります。だからこの句というのは、二回の差異と挫折が含まれています。
まずひとつめは、「えんぴつ」は「鳥」ではなかったということ。「鳥」は「えんぴつ」ではなかったということ。という、種としての差異=挫折。
ふたつめは、「えんぴつ」は書ける「えんぴつ」ではなかったということ。「鳥」は「生まれ」た「鳥」ではなかったということ。という、属性としての差異=挫折。
ところがです。大島弓子さんの歌の語り手が「いつの日かみんなひとつになれる」ことを願っていたように、この句も定型という生のメディアを介することによってちがった生の位相をもたらしてきます。
つまり五七五の定型でこの句をみればこういうことになります。
えんぴつは、書きたい鳥は、生まれたい
「えんぴつ」と「鳥」というふたつの主格=種・属が、「生まれたい」という述語で述語統合されるという、そうした一体としての「生」へのベクトルを含んだ句であるのがこの句のもうひとつの位相だとおもうんです。
だから大島弓子さんの描いた「鳥は鳥に」からなかはらさんの川柳を読んでみたときに、定型を介することによってまったく逆の生の位相を導き出すのがこの「えんぴつは書きたい鳥は生まれたい」という句の奥行きなのではないかとおもうんですね。
もちろん、この句は単体として解釈できるものであり、また『脱衣場のアリス』という句集という連のなかで読むべき句かもしれません。
しかし、たとえばやはりおなじ『脱衣場のアリス』に収録されている次のような句からこの大島弓子さんの歌詞をコンテクストに読解してみたいと思うのは、ひとつのこころみとしてありなのではないかとおもうのです。なぜなら、実際この句集の語り手は「大島弓子」を通過=媒介したときがあったのですから。すなわち、
バスはいま大島弓子を通過する なかはられいこ
大島弓子『綿の国星』
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