【ふしぎな川柳 第五十六夜】絶望プロジェクト-小池正博-
- 2016/01/06
- 01:00
挫折した順にお菓子を食べなさい 小池正博
大縄跳びをとぶペシミスト 〃
【絶望のプロフェッショナル】
小池さんの句でわたしが好きなのが、〈ダメになってしまったひとたち〉がなぜかとても〈元気〉というのがあるんですよ。
なんでしょう、ダメになってから人生がはじまってしまう、というか。ダメになるっていうのが人生のモメントであるかのように、なにかが始まろうとしている。
挫折し絶望したときに「お菓子」があらわれたり、悲しみのプロフェッショナルになったときに「大縄跳び」があらわれたりしている。
で、〈ダメ〉になるっていったいなんなのかっていうと、それまでの自身の枠組みを失うことなんですよね。
枠組みをうしなうっていうのはどういことかっていうと、意味の接合がとれなくなるってことなんですよ。
これを食べるとおいしいと感じていたものがあまりにかなしくておいしくなくなってしまう。記号の不一致が起こりはじめたわけです。
だとしたら、そこから、おいしい=おいしいになるようなイコールの枠組みをさがさなければならない。そういう枠組みの新規蒔き直しとしてダメがとらえられている。
ダメっていうのはダメではなくて、それまでの枠組みが通用しなくなったところに〈ダメ〉がある。だからその〈ダメ〉をちがったかたちでふっと歩みだしたときに新しい枠組みがやってくるわけです。もっときらきらしたお菓子やもっときらきらした大縄跳びがやってくる。
ダメのありかたを細かく・しつこく・泥臭く問い直すこと。
実は現代川柳がやっているのは、これなんじゃないか。
リセットして紅葉からやり直す 小池正博
三谷幸喜『古畑任三郎』(1994)。三谷幸喜劇のなかのひとたちって基本的に〈ダメ〉になると人生が始まるんですね。裏返せば、ダメにならないと人生が始まらないんですよ。『王様のレストラン』もそうですね。だからある意味、ダメのプロが集まっている。『12人の優しい日本人』もそうです。この〈優しい〉っていうのがみそで、〈ダメ〉な優しさをもったひとたちが〈ダメじゃない〉優しさに話し合いで到達するのがこの12人の陪審員を描いた映画です。古畑任三郎はだから殺人犯を暴いて〈ダメ〉にしてあげるひつようがある。三谷劇のなかでは〈ダメ〉になることが唯一の改心の道だからです。新規蒔き直しの。
大縄跳びをとぶペシミスト 〃
【絶望のプロフェッショナル】
小池さんの句でわたしが好きなのが、〈ダメになってしまったひとたち〉がなぜかとても〈元気〉というのがあるんですよ。
なんでしょう、ダメになってから人生がはじまってしまう、というか。ダメになるっていうのが人生のモメントであるかのように、なにかが始まろうとしている。
挫折し絶望したときに「お菓子」があらわれたり、悲しみのプロフェッショナルになったときに「大縄跳び」があらわれたりしている。
で、〈ダメ〉になるっていったいなんなのかっていうと、それまでの自身の枠組みを失うことなんですよね。
枠組みをうしなうっていうのはどういことかっていうと、意味の接合がとれなくなるってことなんですよ。
これを食べるとおいしいと感じていたものがあまりにかなしくておいしくなくなってしまう。記号の不一致が起こりはじめたわけです。
だとしたら、そこから、おいしい=おいしいになるようなイコールの枠組みをさがさなければならない。そういう枠組みの新規蒔き直しとしてダメがとらえられている。
ダメっていうのはダメではなくて、それまでの枠組みが通用しなくなったところに〈ダメ〉がある。だからその〈ダメ〉をちがったかたちでふっと歩みだしたときに新しい枠組みがやってくるわけです。もっときらきらしたお菓子やもっときらきらした大縄跳びがやってくる。
ダメのありかたを細かく・しつこく・泥臭く問い直すこと。
実は現代川柳がやっているのは、これなんじゃないか。
リセットして紅葉からやり直す 小池正博
三谷幸喜『古畑任三郎』(1994)。三谷幸喜劇のなかのひとたちって基本的に〈ダメ〉になると人生が始まるんですね。裏返せば、ダメにならないと人生が始まらないんですよ。『王様のレストラン』もそうですね。だからある意味、ダメのプロが集まっている。『12人の優しい日本人』もそうです。この〈優しい〉っていうのがみそで、〈ダメ〉な優しさをもったひとたちが〈ダメじゃない〉優しさに話し合いで到達するのがこの12人の陪審員を描いた映画です。古畑任三郎はだから殺人犯を暴いて〈ダメ〉にしてあげるひつようがある。三谷劇のなかでは〈ダメ〉になることが唯一の改心の道だからです。新規蒔き直しの。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:ふしぎな川柳-川柳百物語拾遺-