【ふしぎな川柳 第五十七夜】此の世界と猫の世界-丸山進-
- 2016/01/06
- 07:52
世界はねこの世とあの世しかないの 丸山進
【ねこの森にはかえれない】
『川柳フェニックス』4号から丸山さんの一句です。
これって最初は定型にそって、
世界はね、この世とあの世しかないの
って読んでいたんですね。発話というかしゃべっている雰囲気をあらわす助辞「ね」が最後の「の」に対応していますよね。
でも、この句をさいきん何回もみているうちに、これ、もうひとつ、
世界は、ねこの世とあの世しかないの
も、あるなあ、って思えてきたんですよ。
で、ですね、おもしろいのが、定型どおりだと「この世とあの世」しかなかった句が、すこし定型をずらすと「ねこの世」が出てきてしまう。「それしかないの」という発話が「それ以外」をうんでしまうというのがおもしろい点だとおもうんですよ。
つまり、語り手は定型に縛られているうちは「この世とあの世」しかみえていないから、きづかないかもしれない。
でも、定型には〈外〉もあるんだって気がついたしゅんかん、語り手は、「ねこの世」もあるんだということに気がつくかもしれない。
その意味ではこの句において定型って抑圧なんですね。「しか」は定型が生んでいるものなんですよ。でも、その定型の動きによって、〈外〉がうまれる。それもまた定型なんですよ。
ひとはどうやって〈外部〉をみるのか。どうやって帰れなくなったねこの森に帰るのか。
ねこの森には帰れない ここでいいひとみつけたから
と歌ったのは谷山浩子さんでした。
全身に切手を貼って家を出る 丸山進
(『川柳ねじまき』2号)
中原俊『12人の優しい日本人』(1991)。さっきの記事でも述べたんだけれど、三谷幸喜劇のなかのひとたちは〈性善〉的というか、全員〈優しい〉んですね。で、それはどういう意味があるかというと〈話し合いができる〉っていうことなんですよ。その意味で、ハバーマスが言っていたコミュニケーション理性をみんな持ってるんだと思うんですね。だから、ヘルツォークやブレッソン、ハネケの映画のような〈わけがわからないひと〉〈わけがわからない暴力〉っていうのは出てこない。その意味では〈学級会イデオロギー〉なんです。話し合い主義、というか。話し合いましょう! ってこの映画で陪審員のひとりの相島一之さんが何度もいうんだけれど、まさにそれです。古畑も〈話し合う〉ためにしつこくやってくる。でも一方で学級会イデオロギーだけじゃないなって思うのが、学級会のように行儀のいいものではなくて、お祭りのようなどたばたを含んでの話し合いになっていく。そういう身体が織り込まれてくると誰も予想できない無意識が吹き荒れてくるんですよね。自然と。だから、ハンカチ落としをしながら話し合いをしているようなもので、乱数が必ず生成されるんですよね。その意味で三谷劇にもずっと〈外〉がある。
【ねこの森にはかえれない】
『川柳フェニックス』4号から丸山さんの一句です。
これって最初は定型にそって、
世界はね、この世とあの世しかないの
って読んでいたんですね。発話というかしゃべっている雰囲気をあらわす助辞「ね」が最後の「の」に対応していますよね。
でも、この句をさいきん何回もみているうちに、これ、もうひとつ、
世界は、ねこの世とあの世しかないの
も、あるなあ、って思えてきたんですよ。
で、ですね、おもしろいのが、定型どおりだと「この世とあの世」しかなかった句が、すこし定型をずらすと「ねこの世」が出てきてしまう。「それしかないの」という発話が「それ以外」をうんでしまうというのがおもしろい点だとおもうんですよ。
つまり、語り手は定型に縛られているうちは「この世とあの世」しかみえていないから、きづかないかもしれない。
でも、定型には〈外〉もあるんだって気がついたしゅんかん、語り手は、「ねこの世」もあるんだということに気がつくかもしれない。
その意味ではこの句において定型って抑圧なんですね。「しか」は定型が生んでいるものなんですよ。でも、その定型の動きによって、〈外〉がうまれる。それもまた定型なんですよ。
ひとはどうやって〈外部〉をみるのか。どうやって帰れなくなったねこの森に帰るのか。
ねこの森には帰れない ここでいいひとみつけたから
と歌ったのは谷山浩子さんでした。
全身に切手を貼って家を出る 丸山進
(『川柳ねじまき』2号)
中原俊『12人の優しい日本人』(1991)。さっきの記事でも述べたんだけれど、三谷幸喜劇のなかのひとたちは〈性善〉的というか、全員〈優しい〉んですね。で、それはどういう意味があるかというと〈話し合いができる〉っていうことなんですよ。その意味で、ハバーマスが言っていたコミュニケーション理性をみんな持ってるんだと思うんですね。だから、ヘルツォークやブレッソン、ハネケの映画のような〈わけがわからないひと〉〈わけがわからない暴力〉っていうのは出てこない。その意味では〈学級会イデオロギー〉なんです。話し合い主義、というか。話し合いましょう! ってこの映画で陪審員のひとりの相島一之さんが何度もいうんだけれど、まさにそれです。古畑も〈話し合う〉ためにしつこくやってくる。でも一方で学級会イデオロギーだけじゃないなって思うのが、学級会のように行儀のいいものではなくて、お祭りのようなどたばたを含んでの話し合いになっていく。そういう身体が織り込まれてくると誰も予想できない無意識が吹き荒れてくるんですよね。自然と。だから、ハンカチ落としをしながら話し合いをしているようなもので、乱数が必ず生成されるんですよね。その意味で三谷劇にもずっと〈外〉がある。
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