【ふしぎな川柳 第五十九夜】いいのにのの-二村鉄子-
- 2016/01/06
- 12:30
早く帰ればいいのにの西瓜 二村鉄子
「早く帰ればいいのにの」の最後の「の」はすごい。たった一字で状況を名詞に一変させている。 なかはられいこ「ここほれ、わんわん」
【のの「の」】
『川柳ねじまき』2号からの一句です。
なかはらさんが説明されているのを読んであらためてなんだこれはと思ったんですが、この「の」ってすごくふしぎなことになっていますよね。
わたし、以前、「のののののの」ってのが続いていく森川雅美さんの詩について『詩客』で書かせていただいたことがあるんですが、〈の〉ってふしぎなんですね。
それは、の、が連体修飾語であるからというか、うしろに続く所有の助詞になれるからだとおもうんですね。
たとえば、わたしのの、っていうふうに、私の野を「のの」と続けることもできる。のもののなののもう、とか。野茂の野なの飲もう。
で、あとこのくるくるした感じが、めまい感がでていますよね、「の」の。ゲシュタルト崩壊しやすいひらがなともいえます。
二村さんの句では語り手が「早く帰ればいいのに」と〈はっきり〉思っているのはたしかです。でも、「いいのにの」で、言語的につんのめるというか、くらくらしてしまう。語り手の意思ははっきりしているけれど、それを定型で表出したときに、〈くらくら〉するんですよ。だから、定型をとおすと、そうはっきり思っていることでもないかもしれないなと思ってしまう。
なぜなら、このふしぎな「の」っていうのは、たぶん、招かれざる客、〈早く帰ればいいのに〉と思っているまさにその客がもってきたであろう〈の〉だからです。
その〈の〉を語らせたのは来客なんですよね。この二村さんの連作タイトルは「いいのに」なんだけれども、来客がこなければ「いいのに」なんて思わなかった。
そう思うと、招かれざる客は来客にとっては必要なものだったんじゃないかとも思えてきます。
とすると、連作タイトルが「いいのに」は意味深です。
「(いても)いいのに」に反転するかもしれないからです。
あなたがいてくれると〈の〉がふえるということに語り手は気がついているのかもしれない。
ストローの袋のように残されて 二村鉄子
山村浩二「頭山」(2002)。山村アニメーションって、カフカの「田舎医者」をアニメ化したものもそうなんですが、〈パースがまっとうでないな〉という感じがあるんですね。パースというか、構図がめまぐるしく動きながら、いろんな構図と接着=接合していく。自分の頭にできた池でおぼれてしまう最後を迎えるこの落語「頭山」の男のように、〈終わり〉がなく、〈の〉でつながっていくんですよ。〈の〉ってそういう接着の働きがある。〈の〉のアニメーションなのかもしれないなって思うんですよ。
「早く帰ればいいのにの」の最後の「の」はすごい。たった一字で状況を名詞に一変させている。 なかはられいこ「ここほれ、わんわん」
【のの「の」】
『川柳ねじまき』2号からの一句です。
なかはらさんが説明されているのを読んであらためてなんだこれはと思ったんですが、この「の」ってすごくふしぎなことになっていますよね。
わたし、以前、「のののののの」ってのが続いていく森川雅美さんの詩について『詩客』で書かせていただいたことがあるんですが、〈の〉ってふしぎなんですね。
それは、の、が連体修飾語であるからというか、うしろに続く所有の助詞になれるからだとおもうんですね。
たとえば、わたしのの、っていうふうに、私の野を「のの」と続けることもできる。のもののなののもう、とか。野茂の野なの飲もう。
で、あとこのくるくるした感じが、めまい感がでていますよね、「の」の。ゲシュタルト崩壊しやすいひらがなともいえます。
二村さんの句では語り手が「早く帰ればいいのに」と〈はっきり〉思っているのはたしかです。でも、「いいのにの」で、言語的につんのめるというか、くらくらしてしまう。語り手の意思ははっきりしているけれど、それを定型で表出したときに、〈くらくら〉するんですよ。だから、定型をとおすと、そうはっきり思っていることでもないかもしれないなと思ってしまう。
なぜなら、このふしぎな「の」っていうのは、たぶん、招かれざる客、〈早く帰ればいいのに〉と思っているまさにその客がもってきたであろう〈の〉だからです。
その〈の〉を語らせたのは来客なんですよね。この二村さんの連作タイトルは「いいのに」なんだけれども、来客がこなければ「いいのに」なんて思わなかった。
そう思うと、招かれざる客は来客にとっては必要なものだったんじゃないかとも思えてきます。
とすると、連作タイトルが「いいのに」は意味深です。
「(いても)いいのに」に反転するかもしれないからです。
あなたがいてくれると〈の〉がふえるということに語り手は気がついているのかもしれない。
ストローの袋のように残されて 二村鉄子
山村浩二「頭山」(2002)。山村アニメーションって、カフカの「田舎医者」をアニメ化したものもそうなんですが、〈パースがまっとうでないな〉という感じがあるんですね。パースというか、構図がめまぐるしく動きながら、いろんな構図と接着=接合していく。自分の頭にできた池でおぼれてしまう最後を迎えるこの落語「頭山」の男のように、〈終わり〉がなく、〈の〉でつながっていくんですよ。〈の〉ってそういう接着の働きがある。〈の〉のアニメーションなのかもしれないなって思うんですよ。
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