【短歌】はじめての…(毎日新聞・毎日歌壇 米川千嘉子 選・2016年1月4日)
- 2016/01/06
- 18:04
ひかってる方へ確かに来たはずが全部あかるくてわからない 唐梨なつ
【めがね・ひかり・ぜんぶ】
今週の毎日歌壇・加藤治郎さん選からの一首です。
〈ひかり〉って導きとしてとらえられていると思うんですよね。
たとえば、ひかりの短歌といえば、佐伯裕子さんの歌に、
何だろうこの光源は度のつよき父の眼鏡のふたひらの玉 佐伯裕子
という歌があるんだけれど、この眼鏡のレンズの光源の強さが父親の強度にもなっている。もちろん、ここには導きもあるんだけれど、でも、その一方で、ひかりが強すぎてとらえられないかもしれない緊張感もある歌だとおもうんですね。
度の強い眼鏡をかけたときのゆがみの距離感がわたしと父親のあいだにはある。それでも、ひかりは、つよい。
唐梨さんの歌はもっとそのひかりのあやうさがでてくる。〈ひかり〉をたよりに進んでいったら、その〈ひかり〉の全体主義にであってしまう。ひかりの帝国というか、ひかりに覆われている。
ひかりはひかりでいいのだけれど、佐伯さんの歌でひかりが眼鏡によって分節されていたように、ひかりは分節されないと、その強さゆえに、暴力にもなってしまう場合があるのかなともおもうんですよ。
ひかりと分節はじつは密接な関係にあって、その分節がうしなわれて、「全部」ひかりになったときに、ひかりはひかりなのかなんなのか「わからな」くなる。
ひかりって分節されると同時に、たぶんその分節を溶かすパワーをもっているとおもうんですね。
夢の中では、光ることと喋ることは同じこと。お会いしましょう 穂村弘
これも、光と分節と溶解の関係をうたった歌なんじゃないかと思うんです。
で、あらためて考えると、わたしたちは眼鏡をかけている(ひともいる)。佐伯さんの歌にあるように、眼鏡って実は光源で、めもとにひかりをたたえることなんですよ。しかも、眼鏡はいつもふたつですから、ひかりを分節している。
これからは眼鏡をさがすたびに、「眼鏡どこ?」ってきくんじゃなくて、「ひかりどこ?」って聞き方もありかもしれないなって、おもうんですよ。
ひかりどこ?
はじめての奇数にふれた眼鏡だった。眼帯の子はそっとたたんだ 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇 米川千嘉子 選・2016年1月4日)
【めがね・ひかり・ぜんぶ】
今週の毎日歌壇・加藤治郎さん選からの一首です。
〈ひかり〉って導きとしてとらえられていると思うんですよね。
たとえば、ひかりの短歌といえば、佐伯裕子さんの歌に、
何だろうこの光源は度のつよき父の眼鏡のふたひらの玉 佐伯裕子
という歌があるんだけれど、この眼鏡のレンズの光源の強さが父親の強度にもなっている。もちろん、ここには導きもあるんだけれど、でも、その一方で、ひかりが強すぎてとらえられないかもしれない緊張感もある歌だとおもうんですね。
度の強い眼鏡をかけたときのゆがみの距離感がわたしと父親のあいだにはある。それでも、ひかりは、つよい。
唐梨さんの歌はもっとそのひかりのあやうさがでてくる。〈ひかり〉をたよりに進んでいったら、その〈ひかり〉の全体主義にであってしまう。ひかりの帝国というか、ひかりに覆われている。
ひかりはひかりでいいのだけれど、佐伯さんの歌でひかりが眼鏡によって分節されていたように、ひかりは分節されないと、その強さゆえに、暴力にもなってしまう場合があるのかなともおもうんですよ。
ひかりと分節はじつは密接な関係にあって、その分節がうしなわれて、「全部」ひかりになったときに、ひかりはひかりなのかなんなのか「わからな」くなる。
ひかりって分節されると同時に、たぶんその分節を溶かすパワーをもっているとおもうんですね。
夢の中では、光ることと喋ることは同じこと。お会いしましょう 穂村弘
これも、光と分節と溶解の関係をうたった歌なんじゃないかと思うんです。
で、あらためて考えると、わたしたちは眼鏡をかけている(ひともいる)。佐伯さんの歌にあるように、眼鏡って実は光源で、めもとにひかりをたたえることなんですよ。しかも、眼鏡はいつもふたつですから、ひかりを分節している。
これからは眼鏡をさがすたびに、「眼鏡どこ?」ってきくんじゃなくて、「ひかりどこ?」って聞き方もありかもしれないなって、おもうんですよ。
ひかりどこ?
はじめての奇数にふれた眼鏡だった。眼帯の子はそっとたたんだ 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇 米川千嘉子 選・2016年1月4日)
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