【ふしぎな川柳 第六十一夜】完璧な半券-八上桐子-
- 2016/01/07
- 01:33
植物園の半券に似たおわり 八上桐子
弟はあの病室のあのベッドの上で、いつでも完璧に穏やかで、完璧に優しかった。弟の首筋は完璧に滑らかで、弟の吐く息は完璧に透明だった。だからよけいに、哀しい。わたしは発作に襲われるように、何度も何度も繰り返し、哀しんでいる。 小川洋子「完璧な病室」
目新しいものを書こう、などと思う必要はないかもしれない。人間は長い年月、同じことを繰り返し書いてきた。自分もその繰り返しの波に飛び込んでゆこう、という覚悟の方が、ずっと難しく意義深いのだと思う。 小川洋子『新潮』2005/2
【皮ふをくりかえす】
今回、八上さんの連作を読んでいて、なぜかわたしは小川洋子さんの小説を思い出したんですよね。
で、小川洋子さんの小説ってわたしにとっては知覚と痛覚を何度も何度も反復し感受する小説なんですね。「完璧な病室」もそうだけれど、たとえばあの有名な記憶を失う博士の物語『博士が愛した数式』もそうですよね。記憶をなんどもなんども失いながらもういちど知覚していく。八上さんの句でいえば、
灯台の8秒毎にくる痛み 八上桐子
8秒毎に灯台のサーチライトみたいになんどもなんども痛みがくる。それはもう〈決まってしまっている〉ことなんです。「8秒毎」なんだから。でも、痛みをうけるのは〈わたし〉なんですよ。それが、問題です。痛みが問題なのではなく、〈決まってしまっている〉ことと〈わたし〉が〈痛み〉を介してつながってしまっていること、接続されてあることが問題なのです。
そう考えると「植物園の半券」というのは意味深です。「植物園」ですから、動物園や水族館のように能動的な生命あふれる場所ではありません。静態的な、こちらから働きかけて鑑賞するスタティックな場所が「植物園」です。「植物」は動きませんから、わたしたちが眼や内面を動かすひつようがあります。その「半券」をもっている。こちらからアクセスして働きかけるような場所の「半券」のような〈おわり〉。
ここでも〈つながっている〉ことが大事です。わたしからアクセスするような場所に、でも動物とちがって、無反応な植物的な場所に。
なにかが、ずれている。
でも、そのずれのなかで、つながっているものがある。痛みもある。静かさもある。断続もある。距離がある。近さがある。くりかえしが、ある。
それが八上さんの川柳連作や小川洋子さんの小説の質感なのかなあって思ったんですよ。そしてそのざわめきの質感って言語表現にしか出せないものなんじゃないかなと。
この微妙な質感って言語表現にしかできないようなきがするんですよ。これを〈半券の質感〉とわたしは呼びたいとおもう。たとえば、これも。
おふとんをかぶせて浅く埋めておく 八上桐子
鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』(1980)。映画のなかにあらわれた〈皮膚の質感〉って、これなんじゃないかなって思ったんですよ(ダリのシュールレアリスム映画もそうだけれども)。この映画の眼球をなめるシーンってすごく印象的ですよね。エロティックというより、それは〈死〉だとおもうんですね。ダリの『アンダルシアの犬』では眼球にカッターをたしかあてていたけれど、それが舌になることでエロスという粘着性とそこからなにかが感染して異物が生じていくような〈死〉の感触がある。眼球を殺すのではなく、眼球を生かしたまま言祝(ことほ)いだまま死にさらすという。で、森田芳光が『家族ゲーム』で伊丹十三に目玉焼きを舌ですわせていたのはこれへのオマージュもあったのかなあって今おもいました。なにか伊丹十三の『タンポポ』ってグルメが死に結びついていく映画なんだけれども、ちょっとこれとも関連があるかもしれないですね。あの有名な半熟オムライスのシーンは〈浮浪者〉のひとがキッチンにしのびこんでつくることでどことなく社会の裂け目のようなものを感じさせる。眼球や黄身にしょうじるひふの裂け目。
弟はあの病室のあのベッドの上で、いつでも完璧に穏やかで、完璧に優しかった。弟の首筋は完璧に滑らかで、弟の吐く息は完璧に透明だった。だからよけいに、哀しい。わたしは発作に襲われるように、何度も何度も繰り返し、哀しんでいる。 小川洋子「完璧な病室」
目新しいものを書こう、などと思う必要はないかもしれない。人間は長い年月、同じことを繰り返し書いてきた。自分もその繰り返しの波に飛び込んでゆこう、という覚悟の方が、ずっと難しく意義深いのだと思う。 小川洋子『新潮』2005/2
【皮ふをくりかえす】
今回、八上さんの連作を読んでいて、なぜかわたしは小川洋子さんの小説を思い出したんですよね。
で、小川洋子さんの小説ってわたしにとっては知覚と痛覚を何度も何度も反復し感受する小説なんですね。「完璧な病室」もそうだけれど、たとえばあの有名な記憶を失う博士の物語『博士が愛した数式』もそうですよね。記憶をなんどもなんども失いながらもういちど知覚していく。八上さんの句でいえば、
灯台の8秒毎にくる痛み 八上桐子
8秒毎に灯台のサーチライトみたいになんどもなんども痛みがくる。それはもう〈決まってしまっている〉ことなんです。「8秒毎」なんだから。でも、痛みをうけるのは〈わたし〉なんですよ。それが、問題です。痛みが問題なのではなく、〈決まってしまっている〉ことと〈わたし〉が〈痛み〉を介してつながってしまっていること、接続されてあることが問題なのです。
そう考えると「植物園の半券」というのは意味深です。「植物園」ですから、動物園や水族館のように能動的な生命あふれる場所ではありません。静態的な、こちらから働きかけて鑑賞するスタティックな場所が「植物園」です。「植物」は動きませんから、わたしたちが眼や内面を動かすひつようがあります。その「半券」をもっている。こちらからアクセスして働きかけるような場所の「半券」のような〈おわり〉。
ここでも〈つながっている〉ことが大事です。わたしからアクセスするような場所に、でも動物とちがって、無反応な植物的な場所に。
なにかが、ずれている。
でも、そのずれのなかで、つながっているものがある。痛みもある。静かさもある。断続もある。距離がある。近さがある。くりかえしが、ある。
それが八上さんの川柳連作や小川洋子さんの小説の質感なのかなあって思ったんですよ。そしてそのざわめきの質感って言語表現にしか出せないものなんじゃないかなと。
この微妙な質感って言語表現にしかできないようなきがするんですよ。これを〈半券の質感〉とわたしは呼びたいとおもう。たとえば、これも。
おふとんをかぶせて浅く埋めておく 八上桐子
鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』(1980)。映画のなかにあらわれた〈皮膚の質感〉って、これなんじゃないかなって思ったんですよ(ダリのシュールレアリスム映画もそうだけれども)。この映画の眼球をなめるシーンってすごく印象的ですよね。エロティックというより、それは〈死〉だとおもうんですね。ダリの『アンダルシアの犬』では眼球にカッターをたしかあてていたけれど、それが舌になることでエロスという粘着性とそこからなにかが感染して異物が生じていくような〈死〉の感触がある。眼球を殺すのではなく、眼球を生かしたまま言祝(ことほ)いだまま死にさらすという。で、森田芳光が『家族ゲーム』で伊丹十三に目玉焼きを舌ですわせていたのはこれへのオマージュもあったのかなあって今おもいました。なにか伊丹十三の『タンポポ』ってグルメが死に結びついていく映画なんだけれども、ちょっとこれとも関連があるかもしれないですね。あの有名な半熟オムライスのシーンは〈浮浪者〉のひとがキッチンにしのびこんでつくることでどことなく社会の裂け目のようなものを感じさせる。眼球や黄身にしょうじるひふの裂け目。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:ふしぎな川柳-川柳百物語拾遺-