【ふしぎな川柳 第六十二夜】音と罰-米山明日歌-
- 2016/01/07
- 12:00
罰として「ど」の音だけを聞かされる 米山明日歌
【特徴のない罰】
八上桐子さんが解説されていて、あ、そうなのか、って思ったんですが、「ど」って「音階の中では唯一の濁音」なんですよね。あとは「れ」とか「そ」とか「し」になる。
あと考えてみると、「ど」れみふぁそらし「ど」で「ど」がもういちどひとまわりしてくるのも特徴的ですよね。
で、そんなふうに「ど」をとらえていくと、「ど」の最大の意味っていうのは、他の音律との兼ね合いのなかで「ど」という音階が発揮されるということにあります。「ど」だけだと、意味がない。
だから「罰」っていうのは、この〈特徴の剥奪〉なのではないかと思うんですよね。
特徴のない世界に押し込められること。たぶん、「どどどどどどどDODODODODODODODODODO…」ときいていくうちに、「ど」の音もだんだんとこわれていくとおもうんです。「ど」が「ど」でなくなっていくんだろうともおもう。ははははははははははははははははははははははははははは、と書いていると、「は」の特徴が消えるみたいに。
だから、語り手には、もう次の罰が予期されている。「ど」の音だけをきく「罰」から、次は、特徴のうしなわれた「音」だけをきく「罰」です。
米山さんのおなじ連作の、
背もたれのない椅子ばかりすすめられ 米山明日歌
っていうのもちょっと質感が似ていると思うんですよ。背もたれがないことによって、椅子がはっきりしないかたちになっている。すわることにとまどっている。これもひとつの「罰」ですよね。
でも連作タイトルには「これからの音」と書いてあるように、そうした世界の悪意のなかに〈未来〉がある場合が、ある。
裾をもつ役目で今日もさそわれる 米山明日歌
「裾をもつ役目」だから、〈音をさせない〉役目で、〈音の奉仕〉でもあるんだけれども、でも「さそわれ」ていることはたしかで、〈音〉が〈これから〉のつながりを示唆していることも確かです。音は関係の階層をかたちづくるだけでなく、関係の継続もつくる。
「罰」として壊れた「ど」の音をどんなふうに組み換えていけるかは、きっと、語り手のこれからの〈生〉にかかっている。だんだん「ど」がなじんでくると、「ど」を生きられるようにも、なる。
これからの音の詰まった体です 米山明日歌
ディズニー『メリー・ポピンズ』(1964)。ミュージカルってなんだろうって時々考えるんだけれども、ミュージカルってちょっと短詩に似ているとも思うんですよ。どちらも突然歌い出したりしますよね。前置きなしで。しかも歌っていることが〈なんでもないこと〉でも音律にのせることでふしぎな(悪くいえば、ずるい)説得力をもたせてしまう。で、ミュージカルも短詩も、〈よくわからない〉とアレルギーを起こすひともいる。なんだろう、ミュージカルと短詩って、とよく考えています。この『メリー・ポピンズ』に「スパカリフラデリスティックエックスアリドーシャス」というふしぎな魔法の歌がありますが、どんなに意味のない言葉をならべても音階にのせてしまえば〈魔法の言葉〉になることを端的に示している。
【特徴のない罰】
八上桐子さんが解説されていて、あ、そうなのか、って思ったんですが、「ど」って「音階の中では唯一の濁音」なんですよね。あとは「れ」とか「そ」とか「し」になる。
あと考えてみると、「ど」れみふぁそらし「ど」で「ど」がもういちどひとまわりしてくるのも特徴的ですよね。
で、そんなふうに「ど」をとらえていくと、「ど」の最大の意味っていうのは、他の音律との兼ね合いのなかで「ど」という音階が発揮されるということにあります。「ど」だけだと、意味がない。
だから「罰」っていうのは、この〈特徴の剥奪〉なのではないかと思うんですよね。
特徴のない世界に押し込められること。たぶん、「どどどどどどどDODODODODODODODODODO…」ときいていくうちに、「ど」の音もだんだんとこわれていくとおもうんです。「ど」が「ど」でなくなっていくんだろうともおもう。ははははははははははははははははははははははははははは、と書いていると、「は」の特徴が消えるみたいに。
だから、語り手には、もう次の罰が予期されている。「ど」の音だけをきく「罰」から、次は、特徴のうしなわれた「音」だけをきく「罰」です。
米山さんのおなじ連作の、
背もたれのない椅子ばかりすすめられ 米山明日歌
っていうのもちょっと質感が似ていると思うんですよ。背もたれがないことによって、椅子がはっきりしないかたちになっている。すわることにとまどっている。これもひとつの「罰」ですよね。
でも連作タイトルには「これからの音」と書いてあるように、そうした世界の悪意のなかに〈未来〉がある場合が、ある。
裾をもつ役目で今日もさそわれる 米山明日歌
「裾をもつ役目」だから、〈音をさせない〉役目で、〈音の奉仕〉でもあるんだけれども、でも「さそわれ」ていることはたしかで、〈音〉が〈これから〉のつながりを示唆していることも確かです。音は関係の階層をかたちづくるだけでなく、関係の継続もつくる。
「罰」として壊れた「ど」の音をどんなふうに組み換えていけるかは、きっと、語り手のこれからの〈生〉にかかっている。だんだん「ど」がなじんでくると、「ど」を生きられるようにも、なる。
これからの音の詰まった体です 米山明日歌
ディズニー『メリー・ポピンズ』(1964)。ミュージカルってなんだろうって時々考えるんだけれども、ミュージカルってちょっと短詩に似ているとも思うんですよ。どちらも突然歌い出したりしますよね。前置きなしで。しかも歌っていることが〈なんでもないこと〉でも音律にのせることでふしぎな(悪くいえば、ずるい)説得力をもたせてしまう。で、ミュージカルも短詩も、〈よくわからない〉とアレルギーを起こすひともいる。なんだろう、ミュージカルと短詩って、とよく考えています。この『メリー・ポピンズ』に「スパカリフラデリスティックエックスアリドーシャス」というふしぎな魔法の歌がありますが、どんなに意味のない言葉をならべても音階にのせてしまえば〈魔法の言葉〉になることを端的に示している。
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