【感想】ぼたん雪ふる日をマスクしてゆけばすこし自分が大事と思へ 米川千嘉子
- 2016/01/08
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ぼたん雪ふる日をマスクしてゆけばすこし自分が大事と思へ 米川千嘉子
子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。 太宰治「桜桃」
おしまいには、私もポオズをつけてみたりなどした。バルザック像のようにゆったりと腕組みした。すると、私自身が、東京名所の一つになってしまったような気さえして来たのである。東京名所は、大きい声で、「あとは、心配ないぞ!」と叫んだ。 太宰治「東京八景」
【風景も傷ついている】
毎日歌壇の2016年を詠むから米川さんの一首です。
〈ミーイズム〉というか、〈自分勝手〉ではないかたちで、〈自己への配慮〉を考えるときにどういうかたちが考えられるんだろう、ってよくかんがえるんですね。
自閉的になることなく、しかし自分以外の外部を無視することもなく、かといって超越的に一足飛びに無私の精神にたどりつくのでもなく、「自分が大事」というかたちをどう考えたりあらわしたりすることができるんだろう、ということです。
自分を大事にしたいきもちと、自分を大事で自分しかみえなくなってしまうきもちとの競り合いはどこでつけられるんだろうと。
で、この米川さんの歌をみてひとつのヒントとしておもったのが、じぶんを〈風景〉としてみるという視点です。
「ぼたん雪ふる日をマスクしてゆけば」と「ぼたん雪ふる」なかの「マスク」の〈ひとり〉として〈わたし〉がとらえられている。これは〈私〉のことを詠むというよりも、〈風景と化したわたし〉を詠んでいるんじゃないかと思うんですよね。でも、その〈風景〉になる寸前に、「自分が大事」で〈わたし〉にふっと視点をひきもどす。〈風景〉のわたしを認識しながらも、客観視しながらも、風景にわたしを引き渡さずそこで「すこし」ミーイズムを入れる。
それが〈私への配慮〉になるんじゃないかと思うんです。わたしをあけわたしつつも・あけわたすそのしゅんかんに・わたしにひきもどす。
そういうしゅんかんを短歌が〈ふっ〉と描く。
この米川さんの歌を読んだとき、「東京八景」でなんでおどおど卑屈になっていた〈わたし〉が、じぶんが〈風景〉だと思えたしゅんかんに、「あとは心配ないぞ!」と叫ぶことができたのかが少しわかったような気がしたんですよ。
ひとは〈風景〉になることで、ぎゃくに、〈わたし〉を〈わたし〉にひきもどすことができる。むねをはって。
〈わたし〉から〈風景〉へのアクセスこそが、〈わたし〉から〈わたし〉へのアクセスになっているのではないかとおもうんですよね。
それはもしかしたら2016年という〈いま〉にあっては、〈風景〉もまた傷つきはじめているからではないかとも、おもうんですよ。その傷によって風景もまた〈私性〉をもちはじめている。
その土手ゆけば朝(あした)の筑波見え傷つきたりし鬼怒川も光(て)る 米川千嘉子
タルコフスキー『ノスタルジア』(1983)。この映画の最後にすごく印象的なシーンがあって、世界の救済をかけて、ろうそくの日を消さないように主人公が温泉跡をずっと歩いていくんですよ。わたりきれば世界は救済されるという言葉を信じて。でもなんどもなんども消えてしまう。そのたびに男はふりだしに戻ってまた歩きはじめる。で、あらためて考えれば、だれもが、世界の救済とそんな無為ともいえる行為がなんの関係ももたないことはわかる。わかるんだけれど、主人公がなんどもなんどもそれを繰り返しているうちに、そこには言いようのない〈風景〉と〈時間〉がうまれてくる。ある意味では、主人公は〈わたし〉のためにやっているともいるんだけれど、それを繰り返し行っているうちに彼は〈風景〉に化していく。そのとき〈ノスタルジー〉=〈郷愁〉っていうのは、〈わたし〉が〈風景〉へアクセスできる場所を見つけることなんじゃないかなって思ったんです。だからノスタルジーっていうのはどこにもあらわれるんです。〈私の配慮〉が〈風景〉につながっていく場所をみつけさえすれば。
子供より親が大事、と思いたい。子供よりも、その親のほうが弱いのだ。 太宰治「桜桃」
おしまいには、私もポオズをつけてみたりなどした。バルザック像のようにゆったりと腕組みした。すると、私自身が、東京名所の一つになってしまったような気さえして来たのである。東京名所は、大きい声で、「あとは、心配ないぞ!」と叫んだ。 太宰治「東京八景」
【風景も傷ついている】
毎日歌壇の2016年を詠むから米川さんの一首です。
〈ミーイズム〉というか、〈自分勝手〉ではないかたちで、〈自己への配慮〉を考えるときにどういうかたちが考えられるんだろう、ってよくかんがえるんですね。
自閉的になることなく、しかし自分以外の外部を無視することもなく、かといって超越的に一足飛びに無私の精神にたどりつくのでもなく、「自分が大事」というかたちをどう考えたりあらわしたりすることができるんだろう、ということです。
自分を大事にしたいきもちと、自分を大事で自分しかみえなくなってしまうきもちとの競り合いはどこでつけられるんだろうと。
で、この米川さんの歌をみてひとつのヒントとしておもったのが、じぶんを〈風景〉としてみるという視点です。
「ぼたん雪ふる日をマスクしてゆけば」と「ぼたん雪ふる」なかの「マスク」の〈ひとり〉として〈わたし〉がとらえられている。これは〈私〉のことを詠むというよりも、〈風景と化したわたし〉を詠んでいるんじゃないかと思うんですよね。でも、その〈風景〉になる寸前に、「自分が大事」で〈わたし〉にふっと視点をひきもどす。〈風景〉のわたしを認識しながらも、客観視しながらも、風景にわたしを引き渡さずそこで「すこし」ミーイズムを入れる。
それが〈私への配慮〉になるんじゃないかと思うんです。わたしをあけわたしつつも・あけわたすそのしゅんかんに・わたしにひきもどす。
そういうしゅんかんを短歌が〈ふっ〉と描く。
この米川さんの歌を読んだとき、「東京八景」でなんでおどおど卑屈になっていた〈わたし〉が、じぶんが〈風景〉だと思えたしゅんかんに、「あとは心配ないぞ!」と叫ぶことができたのかが少しわかったような気がしたんですよ。
ひとは〈風景〉になることで、ぎゃくに、〈わたし〉を〈わたし〉にひきもどすことができる。むねをはって。
〈わたし〉から〈風景〉へのアクセスこそが、〈わたし〉から〈わたし〉へのアクセスになっているのではないかとおもうんですよね。
それはもしかしたら2016年という〈いま〉にあっては、〈風景〉もまた傷つきはじめているからではないかとも、おもうんですよ。その傷によって風景もまた〈私性〉をもちはじめている。
その土手ゆけば朝(あした)の筑波見え傷つきたりし鬼怒川も光(て)る 米川千嘉子
タルコフスキー『ノスタルジア』(1983)。この映画の最後にすごく印象的なシーンがあって、世界の救済をかけて、ろうそくの日を消さないように主人公が温泉跡をずっと歩いていくんですよ。わたりきれば世界は救済されるという言葉を信じて。でもなんどもなんども消えてしまう。そのたびに男はふりだしに戻ってまた歩きはじめる。で、あらためて考えれば、だれもが、世界の救済とそんな無為ともいえる行為がなんの関係ももたないことはわかる。わかるんだけれど、主人公がなんどもなんどもそれを繰り返しているうちに、そこには言いようのない〈風景〉と〈時間〉がうまれてくる。ある意味では、主人公は〈わたし〉のためにやっているともいるんだけれど、それを繰り返し行っているうちに彼は〈風景〉に化していく。そのとき〈ノスタルジー〉=〈郷愁〉っていうのは、〈わたし〉が〈風景〉へアクセスできる場所を見つけることなんじゃないかなって思ったんです。だからノスタルジーっていうのはどこにもあらわれるんです。〈私の配慮〉が〈風景〉につながっていく場所をみつけさえすれば。
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