【感想】飛び蹴りを誰かにきめてやりたくて光のなかへ出でてゆきたり 田村元
- 2014/07/09
- 04:28
飛び蹴りを誰かにきめてやりたくて光のなかへ出でてゆきたり 田村元
【カイロスがクロノスに決めたライダーキック】
とても好きな歌なんですが、「たり」っていう古語の助動詞がポイントになっているのではないかとおもっていて、「たり」という助動詞は、①「~した」という完了の意味と、②「~している」という存続の意味があります。古文を訳すときは文意によってこのどちらかに訳すんですが、この歌の「たり」にかんしていえば、「光のなかへ出ていった」という完了であると同時に「光のなかへ出ていっている」という存続のニュアンスも含んでいるようにおもうんですよね。
つまり、この歌にとって「たり」とは大きな時間幅をはらんだ〈語り手が闇のなかで待機していた時空間〉としての助動詞「たり」なのではないかとおもうのです。
だから、「光のなかへ出ていった」であると「光のなかへ出ていっている」ともたれるかんじになる。光のなかへいま歩み出している語り手のからだから闇の残滓がこぼれつつある。これはそうした現代口語では出せない語り手の心的時間性を古語によって胚胎しているうたなのではないかとおもうんです。
そうかんがえてみた場合、「飛び蹴り」というのはとても大事になります。
「飛び蹴り」といえば、上の画像のような「ライダーキック」が想起されますが、「飛び蹴り」という表象にとって大切なのは〈止め絵〉的ドラマとしての「ライダーキック」を思い出してみればわかるように時間の静止、あるいは超高速撮影のような超スローな時間空間の発現が「飛び蹴り」がはらんでいる時間です。「飛び蹴り」というのはいつでも〈止め絵〉とし表現されます。〈止め絵〉じゃないとすぐ落下してしまうからなんですが、すぐ落下してしまうということは、ひとの視覚が追いつかないのが「飛び蹴り」です。つまり、超スローのような時間意識を根っこから変えないといけないような時間空間のなかに現れるのが「飛び蹴り」であり、そうしたひとの時間の流れとはちがった流れのなかで「存続」と「完了」をあわせもつのが「飛び蹴り」です。
そう、かんがえると実は「飛び蹴り」の瞬間的静止的異時間というのは、結語の「たり」の潜伏的存続時間と対になっているのではないかというふうにわたしはおもうんですね。つまり、「飛び蹴り」とはそうした語り手がいままでずっといた「闇」としての時間に対する時間を組み変えるような「飛び蹴り」だったのではないか。もっといえば、「たり」にダイナミックな蹴りをくらわして「げり」という語り手がみいだした新しい語り手だけの〈助動ー詞〉に置換することが語り手にとっての「飛び蹴り」なのではないかとおもうのです。
ギリシアの神にならった「クロノス時間」と「カイロス時間」ということばがありますが、過去から未来へと一定速度・一定方向で機械的に流れる連続した時間としての「クロノス時間」に、一瞬や人間の主観的な時間を表す「カイロス時間」としての「飛び蹴り」をきめたのがまさにこの歌なのではないかとおもうのです。
そうした足と時間性の問題、もっといえば足で/に生の歴史を刻むことは、次のような歌にもうかがえるのではないかとおもいます。すなわち、
朝な朝な丘より駆けて来る女(ひと)のヒールがすこし春野にささる 田村元
【カイロスがクロノスに決めたライダーキック】
とても好きな歌なんですが、「たり」っていう古語の助動詞がポイントになっているのではないかとおもっていて、「たり」という助動詞は、①「~した」という完了の意味と、②「~している」という存続の意味があります。古文を訳すときは文意によってこのどちらかに訳すんですが、この歌の「たり」にかんしていえば、「光のなかへ出ていった」という完了であると同時に「光のなかへ出ていっている」という存続のニュアンスも含んでいるようにおもうんですよね。
つまり、この歌にとって「たり」とは大きな時間幅をはらんだ〈語り手が闇のなかで待機していた時空間〉としての助動詞「たり」なのではないかとおもうのです。
だから、「光のなかへ出ていった」であると「光のなかへ出ていっている」ともたれるかんじになる。光のなかへいま歩み出している語り手のからだから闇の残滓がこぼれつつある。これはそうした現代口語では出せない語り手の心的時間性を古語によって胚胎しているうたなのではないかとおもうんです。
そうかんがえてみた場合、「飛び蹴り」というのはとても大事になります。
「飛び蹴り」といえば、上の画像のような「ライダーキック」が想起されますが、「飛び蹴り」という表象にとって大切なのは〈止め絵〉的ドラマとしての「ライダーキック」を思い出してみればわかるように時間の静止、あるいは超高速撮影のような超スローな時間空間の発現が「飛び蹴り」がはらんでいる時間です。「飛び蹴り」というのはいつでも〈止め絵〉とし表現されます。〈止め絵〉じゃないとすぐ落下してしまうからなんですが、すぐ落下してしまうということは、ひとの視覚が追いつかないのが「飛び蹴り」です。つまり、超スローのような時間意識を根っこから変えないといけないような時間空間のなかに現れるのが「飛び蹴り」であり、そうしたひとの時間の流れとはちがった流れのなかで「存続」と「完了」をあわせもつのが「飛び蹴り」です。
そう、かんがえると実は「飛び蹴り」の瞬間的静止的異時間というのは、結語の「たり」の潜伏的存続時間と対になっているのではないかというふうにわたしはおもうんですね。つまり、「飛び蹴り」とはそうした語り手がいままでずっといた「闇」としての時間に対する時間を組み変えるような「飛び蹴り」だったのではないか。もっといえば、「たり」にダイナミックな蹴りをくらわして「げり」という語り手がみいだした新しい語り手だけの〈助動ー詞〉に置換することが語り手にとっての「飛び蹴り」なのではないかとおもうのです。
ギリシアの神にならった「クロノス時間」と「カイロス時間」ということばがありますが、過去から未来へと一定速度・一定方向で機械的に流れる連続した時間としての「クロノス時間」に、一瞬や人間の主観的な時間を表す「カイロス時間」としての「飛び蹴り」をきめたのがまさにこの歌なのではないかとおもうのです。
そうした足と時間性の問題、もっといえば足で/に生の歴史を刻むことは、次のような歌にもうかがえるのではないかとおもいます。すなわち、
朝な朝な丘より駆けて来る女(ひと)のヒールがすこし春野にささる 田村元
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