【感想】ひとりずつスプーンとなってゆく二月 小倉喜郎
- 2016/01/08
- 00:30
ひとりずつスプーンとなってゆく二月 小倉喜郎
【理由は、ない。急がねば】
小倉さんの句集『急がねば』からの一句です。
この句集の跋文も書かれている坪内稔典さんの帯文がこの句集の質感を的確に一文にまとめられていると思うんですが、「要するに、不思議にしておかしいのである」と。
ほんとうに、そうだと思うんですよね。小倉さんの俳句は、ふしぎにしておかしい。
だからちょっとその点、ふしぎな現代川柳に近いんです。川柳に近いんだけれども、でも川柳とちがう点は〈季語〉に対してスタンスがあるということだとおもうんですよ。わたしは季語に対してこういう立場をとりますと。そういう立場を示すことが俳句であり、川柳にないものではないかと思うんですね。
「急がねば」ならない理由はないんだけれども、ともかく小倉さんの俳句をみてみましょう。
駆け下りる非常階段白日傘 小倉喜郎
魚屋に脚立などあり夕薄暑 〃
古代魚のしっぽキラキラ合歓の花 〃
黴の家することなくて逆立ちを 〃
蜃気楼グラスに水を注ぎ足して 〃
ひとりずつスプーンとなってゆく二月 〃
こうみてみると「ふしぎでおかしい」句ばかりなんですが、わたしが感じたのは、〈なにかをしようとしているひとが多いな〉ってことなんです。じっとしていられない。その意味でも、現代川柳と通じる点がある。
非常階段を「駆け下りる」し、魚屋にのぼるための「脚立」を見つけてしまう、「古代魚のしっぽ」の「キラキラ」に反応しつつ、黴の家では「逆立ち」をする。「蜃気楼」のために「水を注ぎ足して」、果ては「スプーンとなって」しまう。
理由はわからないんだけれど、なにか「急がねば」ならない理由があって、語り手はそのつどそのつど〈アクション〉しようとしている。それが語り手の〈ふしぎさ〉であり〈おかしみ〉になっていると思うんですよ。
私は季語って「ここにいろよ。言葉を落ち着かせなよ」って肩を押さえてくるものだとおもうんですね。でも小倉さんの俳句の語り手は季語にであうたびになにかアクションをとろうとしている。現代川柳ではなにもしなくていいにもかかわらず語り手たちはたえずなにかをしようとしていますが、小倉さんの俳句も季語の編み目をかいくぐってすかさず〈なにかをしようとしている〉。
なんでかは、わかりません。
でも、句集のタイトルには、〈急がねば〉と書いてある。
句集のタイトルじたいが、すでに走り始めている。
そういうとてもふしぎな句集なんです。
だから「アロハシャツ」という季語に出会った語り手は待っていたかのようにこんな奇行に、でる。
アロハシャツ着てテレビ捨てにゆく 小倉喜郎
『バスター・キートンのセブンチャンス』(1925)。この映画で有名なシーンがあって、最後に岩が転がってくる斜面をバートンが転がりながらも駆け下りていくんですよね。で、このシーンは物語の一部ではあるけれど、ただ純粋なアクションとしても楽しめるシーンなんです。そう考えたときにドタバタってなにかって考えてみると、〈なにかをしなくてはならない強迫観念の継続〉だということもできるんじゃないかと思うんですよ。物語や言語のレベルでは安住できない。ともかくなにかをしなくちゃと常に〈急がねば〉ならない状態に身を置いている。それが、スラップスティックなんじゃないか。
【理由は、ない。急がねば】
小倉さんの句集『急がねば』からの一句です。
この句集の跋文も書かれている坪内稔典さんの帯文がこの句集の質感を的確に一文にまとめられていると思うんですが、「要するに、不思議にしておかしいのである」と。
ほんとうに、そうだと思うんですよね。小倉さんの俳句は、ふしぎにしておかしい。
だからちょっとその点、ふしぎな現代川柳に近いんです。川柳に近いんだけれども、でも川柳とちがう点は〈季語〉に対してスタンスがあるということだとおもうんですよ。わたしは季語に対してこういう立場をとりますと。そういう立場を示すことが俳句であり、川柳にないものではないかと思うんですね。
「急がねば」ならない理由はないんだけれども、ともかく小倉さんの俳句をみてみましょう。
駆け下りる非常階段白日傘 小倉喜郎
魚屋に脚立などあり夕薄暑 〃
古代魚のしっぽキラキラ合歓の花 〃
黴の家することなくて逆立ちを 〃
蜃気楼グラスに水を注ぎ足して 〃
ひとりずつスプーンとなってゆく二月 〃
こうみてみると「ふしぎでおかしい」句ばかりなんですが、わたしが感じたのは、〈なにかをしようとしているひとが多いな〉ってことなんです。じっとしていられない。その意味でも、現代川柳と通じる点がある。
非常階段を「駆け下りる」し、魚屋にのぼるための「脚立」を見つけてしまう、「古代魚のしっぽ」の「キラキラ」に反応しつつ、黴の家では「逆立ち」をする。「蜃気楼」のために「水を注ぎ足して」、果ては「スプーンとなって」しまう。
理由はわからないんだけれど、なにか「急がねば」ならない理由があって、語り手はそのつどそのつど〈アクション〉しようとしている。それが語り手の〈ふしぎさ〉であり〈おかしみ〉になっていると思うんですよ。
私は季語って「ここにいろよ。言葉を落ち着かせなよ」って肩を押さえてくるものだとおもうんですね。でも小倉さんの俳句の語り手は季語にであうたびになにかアクションをとろうとしている。現代川柳ではなにもしなくていいにもかかわらず語り手たちはたえずなにかをしようとしていますが、小倉さんの俳句も季語の編み目をかいくぐってすかさず〈なにかをしようとしている〉。
なんでかは、わかりません。
でも、句集のタイトルには、〈急がねば〉と書いてある。
句集のタイトルじたいが、すでに走り始めている。
そういうとてもふしぎな句集なんです。
だから「アロハシャツ」という季語に出会った語り手は待っていたかのようにこんな奇行に、でる。
アロハシャツ着てテレビ捨てにゆく 小倉喜郎
『バスター・キートンのセブンチャンス』(1925)。この映画で有名なシーンがあって、最後に岩が転がってくる斜面をバートンが転がりながらも駆け下りていくんですよね。で、このシーンは物語の一部ではあるけれど、ただ純粋なアクションとしても楽しめるシーンなんです。そう考えたときにドタバタってなにかって考えてみると、〈なにかをしなくてはならない強迫観念の継続〉だということもできるんじゃないかと思うんですよ。物語や言語のレベルでは安住できない。ともかくなにかをしなくちゃと常に〈急がねば〉ならない状態に身を置いている。それが、スラップスティックなんじゃないか。
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