【お知らせ】「【短詩時評 十席目】新春一首徹底対談 法橋ひらく×柳本々々-柳谷あゆみを、今、連打する-」『BLOG俳句新空間 第34号』
- 2016/01/08
- 07:30
『 BLOG俳句新空間 第34号』にて「【短詩時評 十席目】新春一首徹底対談 法橋ひらく×柳本々々-柳谷あゆみを、今、連打する-」という記事を載せていただきました。『BLOG俳句新空間』編集部にお礼申し上げます。ありがとうございました!
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
今回は、2016年の今いちどきちんと取り上げてみたい歌人の方をとりあげてみようという考えから、柳谷あゆみさんの短歌一首を、歌人の法橋ひらくさんとさまざまな角度から読んでみるということをしてみました。
2016年までなんとか生きてきてさいきん感じるのは、世界や社会っていうのは実はそんなに脱魔術化していたわけでもないのではないかということです(近代に入って魔法が解けたわけではなかった)。
マックス・ヴェーバーが、近代化していくにしたがって社会が世俗化(脱宗教化)されて合理的に脱魔術化していくんだとたしかいっていたと思うんですが、でも2016年においても超越性というか、〈わけがわからないちから〉っていうのはけっこうあふれているんじゃないかと思うんですね。
というよりも、どんなに合理化しようとしても、テロや災害は理性の外からやってくる。合理性や理性って(ほんとうに)いまさらながらもそんなに強靱なものでもないというのが〈体感的〉にわかってきている。
そのとき各人が〈わけがわからないちから〉にどう向き合うかが(おおげさなものでなくても)日々考えられたりされるようになっているんじゃないかとも思うんですよ。意識しても、していなくても。
で、そこを無理に短歌に結びつけることはないんだけれども、でも短歌という表現形態にはいつも定型というひとつの超越性がある。わけのわからないちからとしての定型と向き合うのが短歌なわけです。だからある意味で短歌という表現形態はずっと魔術化されてるわけです。魔法が解けたことがない。定型という信仰はおそらく失われたことがない。わけのわからないちからのなかで短歌はずっと今も表現をつづけている。
だから、そういう〈わけのわからないちから〉をいつも率直に考える場所が、短歌のトポスなのかなあっておもうんですよ。
ひとはいつもわけのわからないちからに出会う。恋も、神さまも、運命も、生も、死も、言葉も、自然も、労働も、災害も、人災も、親愛なる他者も、そういうところにあるものだとおもうんです。
そういうわけのわからないちからへのまなざしのひとつが短歌にあるのではないだろうか。
そんなことを法橋ひらくさんとお話したあとに考えていました。
運命より近くばかりに集まってあのひとたちは日記をつけない 柳谷あゆみ
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
今回は、2016年の今いちどきちんと取り上げてみたい歌人の方をとりあげてみようという考えから、柳谷あゆみさんの短歌一首を、歌人の法橋ひらくさんとさまざまな角度から読んでみるということをしてみました。
2016年までなんとか生きてきてさいきん感じるのは、世界や社会っていうのは実はそんなに脱魔術化していたわけでもないのではないかということです(近代に入って魔法が解けたわけではなかった)。
マックス・ヴェーバーが、近代化していくにしたがって社会が世俗化(脱宗教化)されて合理的に脱魔術化していくんだとたしかいっていたと思うんですが、でも2016年においても超越性というか、〈わけがわからないちから〉っていうのはけっこうあふれているんじゃないかと思うんですね。
というよりも、どんなに合理化しようとしても、テロや災害は理性の外からやってくる。合理性や理性って(ほんとうに)いまさらながらもそんなに強靱なものでもないというのが〈体感的〉にわかってきている。
そのとき各人が〈わけがわからないちから〉にどう向き合うかが(おおげさなものでなくても)日々考えられたりされるようになっているんじゃないかとも思うんですよ。意識しても、していなくても。
で、そこを無理に短歌に結びつけることはないんだけれども、でも短歌という表現形態にはいつも定型というひとつの超越性がある。わけのわからないちからとしての定型と向き合うのが短歌なわけです。だからある意味で短歌という表現形態はずっと魔術化されてるわけです。魔法が解けたことがない。定型という信仰はおそらく失われたことがない。わけのわからないちからのなかで短歌はずっと今も表現をつづけている。
だから、そういう〈わけのわからないちから〉をいつも率直に考える場所が、短歌のトポスなのかなあっておもうんですよ。
ひとはいつもわけのわからないちからに出会う。恋も、神さまも、運命も、生も、死も、言葉も、自然も、労働も、災害も、人災も、親愛なる他者も、そういうところにあるものだとおもうんです。
そういうわけのわからないちからへのまなざしのひとつが短歌にあるのではないだろうか。
そんなことを法橋ひらくさんとお話したあとに考えていました。
運命より近くばかりに集まってあのひとたちは日記をつけない 柳谷あゆみ
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