【ふしぎな川柳 第六十四夜】修正主義者の集い-安藤なみ-
- 2016/01/12
- 00:05
「も」が消えてやせないゴミとやせるゴミ 安藤なみ
赤ペンで修正できる熊野古道 〃
【集会会場いっぱいの赤ペン先生】
川柳って〈修正主義者の集い〉なのではないかと思うことがあるんですね。
だけれども、たとえば歴史の修正が〈解釈〉=言葉によって行われるのとは違って、川柳においては言葉(書かれ・語られるもの)とモノ(書かれ・語られるモノ)を往還しながら〈修正〉されるのが特徴的です。
「も」が消えるといった言語的事象から、「やせないゴミ」と「やせるゴミ」が生まれたり、「赤ペン」という筆記具から「熊野古道」という道が〈修正〉されていく。
川柳ではいつも世界とは違った文法や語法がつむがれているんだけれど、考えてみるとこの〈修正〉という基調によって世界のズレが起こっているのではないかとおもうんですよ。〈お別れ〉や〈さよなら〉が多いのもそれがひとつの修正だからです。
川柳は志向として、いつもなにかを独自のやり方で〈修正〉しようとしている。
けれども、あくまで17音の定型誌なので、川柳は一回きりの修正を終えたのちに、その修正を絶やしてしまう。だからその修正によって派閥や共同体をつくろうとしないのも川柳の修正の特徴です。修正は改良や進歩のために行われるためのはずのものなのに、川柳はどこにも行こうとはしていない。むしろいまここで一回ずつ命を絶やし消えようとしている。
そうした〈無為の共同体〉が川柳のひとつの特徴でもあるのかなあっておもうんですよ。みんな、かくじんが、ないしょで、ひとりひとりの修正をおこないながら、一回かぎりの定型を終えていく。
雫だったことはつららには内緒 安藤なみ
今石洋之『劇場版 天元突破グレンラガン 螺巌篇』(2009)。この映画で最後の強大な敵と戦っている時に各キャラクターのパラレルワールドの世界が出てくるんですね。実はこんなふうにも生きられていたのになっていう世界ですね。で、生きていると〈あのときああしていたら今はこうだったのにな〉っていう無数のパラレルワールドって出て来ますよね。それって今の生への〈迷い〉にもなっていくわけです。で、この映画はそれにどういう答えを出したかって言うと、「行くぜ、ダチ公」っていう言葉が象徴しているように、今この私とつながっている関係(友ダチ)を考えることが修正が効かない世界に向かうひとつの答え、パラレルワールドを封じる世界なんだよっていう考え方をしているアニメだと思うんですね。パラレルワールドっていうのは、今あるつながりと両立することはできないわけですよね。もうひとつのありえた世界なんだから。その世界ではわたしとあなたはトモダチではないかもしれない。でも今あるつながり自身が、未知数で、それ自身がパラレルワールド的可能性を常に内包しているんだとひとは気がつくときに、かりそめのパラレルワールド的世界観を捨てることができる。それがグレンラガンの導き出した答えだったんじゃないかと思うんです。つまり、複数の可能性っていうのはわたしじゃなくていつもこのわたしに今アクセスしてきているあなたがもっているということです。だからわたしのなかだけで世界の可能性をあれこれ考えることはできない。これは黒澤明の『どですかでん』でも自殺しようとする男性におなじ問いが投げかけられていました。そのシーンが、とてもいいんだ。
赤ペンで修正できる熊野古道 〃
【集会会場いっぱいの赤ペン先生】
川柳って〈修正主義者の集い〉なのではないかと思うことがあるんですね。
だけれども、たとえば歴史の修正が〈解釈〉=言葉によって行われるのとは違って、川柳においては言葉(書かれ・語られるもの)とモノ(書かれ・語られるモノ)を往還しながら〈修正〉されるのが特徴的です。
「も」が消えるといった言語的事象から、「やせないゴミ」と「やせるゴミ」が生まれたり、「赤ペン」という筆記具から「熊野古道」という道が〈修正〉されていく。
川柳ではいつも世界とは違った文法や語法がつむがれているんだけれど、考えてみるとこの〈修正〉という基調によって世界のズレが起こっているのではないかとおもうんですよ。〈お別れ〉や〈さよなら〉が多いのもそれがひとつの修正だからです。
川柳は志向として、いつもなにかを独自のやり方で〈修正〉しようとしている。
けれども、あくまで17音の定型誌なので、川柳は一回きりの修正を終えたのちに、その修正を絶やしてしまう。だからその修正によって派閥や共同体をつくろうとしないのも川柳の修正の特徴です。修正は改良や進歩のために行われるためのはずのものなのに、川柳はどこにも行こうとはしていない。むしろいまここで一回ずつ命を絶やし消えようとしている。
そうした〈無為の共同体〉が川柳のひとつの特徴でもあるのかなあっておもうんですよ。みんな、かくじんが、ないしょで、ひとりひとりの修正をおこないながら、一回かぎりの定型を終えていく。
雫だったことはつららには内緒 安藤なみ
今石洋之『劇場版 天元突破グレンラガン 螺巌篇』(2009)。この映画で最後の強大な敵と戦っている時に各キャラクターのパラレルワールドの世界が出てくるんですね。実はこんなふうにも生きられていたのになっていう世界ですね。で、生きていると〈あのときああしていたら今はこうだったのにな〉っていう無数のパラレルワールドって出て来ますよね。それって今の生への〈迷い〉にもなっていくわけです。で、この映画はそれにどういう答えを出したかって言うと、「行くぜ、ダチ公」っていう言葉が象徴しているように、今この私とつながっている関係(友ダチ)を考えることが修正が効かない世界に向かうひとつの答え、パラレルワールドを封じる世界なんだよっていう考え方をしているアニメだと思うんですね。パラレルワールドっていうのは、今あるつながりと両立することはできないわけですよね。もうひとつのありえた世界なんだから。その世界ではわたしとあなたはトモダチではないかもしれない。でも今あるつながり自身が、未知数で、それ自身がパラレルワールド的可能性を常に内包しているんだとひとは気がつくときに、かりそめのパラレルワールド的世界観を捨てることができる。それがグレンラガンの導き出した答えだったんじゃないかと思うんです。つまり、複数の可能性っていうのはわたしじゃなくていつもこのわたしに今アクセスしてきているあなたがもっているということです。だからわたしのなかだけで世界の可能性をあれこれ考えることはできない。これは黒澤明の『どですかでん』でも自殺しようとする男性におなじ問いが投げかけられていました。そのシーンが、とてもいいんだ。
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