【ふしぎな川柳 第六十五夜】ガチャピン・ムック・鉄仮面-魚澄秋来-
- 2016/01/15
- 00:17
ガチャピンでもムックでもなく鉄仮面 魚澄秋来
【朝の鉄仮面】
これ面白いなと思ってですね、「AでもなくBでもなくC」構文ってふしぎな構文だと思うんですよ。
AじゃないBじゃないって否定はしているわけですよね。そうじゃないんだって。
でもそう否定することによってAとBとCをおなじカテゴリーに語り手が置いていることがわかる。
「ガチャピン」と「ムック」と「鉄仮面」は語り手のなかでは同じカテゴリーですね。だから、〈ガチャピンでも鉄仮面でもなくムック〉という状態だってありえたはずなんですよ。
で、問題は、ガチャピンとムックは一般的に〈ポンキッキ〉という同カテゴリーでみんなが括っているににしても、ここに「鉄仮面」をいっしょにくくることはしない。でもこの語り手はこの〈ポンキッキ〉カテゴリーのなかに「鉄仮面」を組み込んでしまった、それが語り手と社会とを隔絶する「鉄仮面」だとおもうんですよ。
鉄仮面っていうのはなにかっていうとそれぞれのカテゴリーの仕方にある。
生きていると、めいめいでカテゴリーの仕方がばらけてくるわけですよね。たとえば、先端恐怖症のひとは〈先端カテゴリー〉で世界がちがったかたちでみえてくる。それは〈先端への忌避〉からこれまで出会った先端を再組織化することです。語り手は「鉄仮面」をカテゴリーのなかに導入することで、「ガチャピン」や「ムック」も再組織化しようとしている。そのカテゴリーではガチャピンの不気味な万能さやムックのぶきみなくちもとの虚(うろ)が再考されるかもしれない。鉄仮面というといろんな文学があるから、ガチャピンやムックが文学的なコンテクストに置かれ、もういちど意味がひっぱりだされるかもしれない。
そういう〈カテゴリーの闇鍋〉のようなところが面白い句だなあっておもいました。
図書室にチンダル現象そして秋 魚澄秋来
富野由悠季『機動戦士ガンダムF91』(1991)。カロッゾ・ロナっていう貴族主義を暴走させて人類を抹殺しようとする〈鉄仮面〉のおじさんが出てくるんですが(ちょっとラスコーリニコフを宇宙に打ち上げたような感じです)、富野由悠季アニメで仮面って大事な要素ですよね。ガンダムのシャアやVガンダムのクロノクル・アシャー、ガンダムレコンギスタのマスクがいます。で、富野由悠季アニメでは仮面っていうのは〈傷だらけの自我の保護装置〉みたいになっているけれど、同時に〈剥き出しのエゴをセーブする抑圧装置〉みたいになっている。解釈はさておいても、ひとりの人間が仮面をつけることで、容易に構造を構造化できる装置になってるわけです。〈わたしはここにいるがわたしはどこにもいない〉みたいな。仮面って言語の限界をセーブしながらそこから無限の解釈を引き出せる点ですごく便利だと思うんです。そういえば能面も仮面ですよね。日本には着ぐるみ文化や怪獣文化があるけれど、この〈仮面〉を全身化させたのが、着ぐるみや怪獣なんじゃないかと思ったりもするんです。ゆるキャラも仮面文化であり鉄仮面と結びついているんじゃないかと。仮面の向こう側にほんとうのわたしがあるというよりは、仮面そのものが〈わたし〉というキャラクターをつくりあげていく。それは全身化しガチャピンやムックになる。そうした〈仮面の全身化〉っていうのは定型という器が意味そのものを引き込んでいく川柳や短歌にもちょっと似ているんじゃないかとも思うんです。
【朝の鉄仮面】
これ面白いなと思ってですね、「AでもなくBでもなくC」構文ってふしぎな構文だと思うんですよ。
AじゃないBじゃないって否定はしているわけですよね。そうじゃないんだって。
でもそう否定することによってAとBとCをおなじカテゴリーに語り手が置いていることがわかる。
「ガチャピン」と「ムック」と「鉄仮面」は語り手のなかでは同じカテゴリーですね。だから、〈ガチャピンでも鉄仮面でもなくムック〉という状態だってありえたはずなんですよ。
で、問題は、ガチャピンとムックは一般的に〈ポンキッキ〉という同カテゴリーでみんなが括っているににしても、ここに「鉄仮面」をいっしょにくくることはしない。でもこの語り手はこの〈ポンキッキ〉カテゴリーのなかに「鉄仮面」を組み込んでしまった、それが語り手と社会とを隔絶する「鉄仮面」だとおもうんですよ。
鉄仮面っていうのはなにかっていうとそれぞれのカテゴリーの仕方にある。
生きていると、めいめいでカテゴリーの仕方がばらけてくるわけですよね。たとえば、先端恐怖症のひとは〈先端カテゴリー〉で世界がちがったかたちでみえてくる。それは〈先端への忌避〉からこれまで出会った先端を再組織化することです。語り手は「鉄仮面」をカテゴリーのなかに導入することで、「ガチャピン」や「ムック」も再組織化しようとしている。そのカテゴリーではガチャピンの不気味な万能さやムックのぶきみなくちもとの虚(うろ)が再考されるかもしれない。鉄仮面というといろんな文学があるから、ガチャピンやムックが文学的なコンテクストに置かれ、もういちど意味がひっぱりだされるかもしれない。
そういう〈カテゴリーの闇鍋〉のようなところが面白い句だなあっておもいました。
図書室にチンダル現象そして秋 魚澄秋来
富野由悠季『機動戦士ガンダムF91』(1991)。カロッゾ・ロナっていう貴族主義を暴走させて人類を抹殺しようとする〈鉄仮面〉のおじさんが出てくるんですが(ちょっとラスコーリニコフを宇宙に打ち上げたような感じです)、富野由悠季アニメで仮面って大事な要素ですよね。ガンダムのシャアやVガンダムのクロノクル・アシャー、ガンダムレコンギスタのマスクがいます。で、富野由悠季アニメでは仮面っていうのは〈傷だらけの自我の保護装置〉みたいになっているけれど、同時に〈剥き出しのエゴをセーブする抑圧装置〉みたいになっている。解釈はさておいても、ひとりの人間が仮面をつけることで、容易に構造を構造化できる装置になってるわけです。〈わたしはここにいるがわたしはどこにもいない〉みたいな。仮面って言語の限界をセーブしながらそこから無限の解釈を引き出せる点ですごく便利だと思うんです。そういえば能面も仮面ですよね。日本には着ぐるみ文化や怪獣文化があるけれど、この〈仮面〉を全身化させたのが、着ぐるみや怪獣なんじゃないかと思ったりもするんです。ゆるキャラも仮面文化であり鉄仮面と結びついているんじゃないかと。仮面の向こう側にほんとうのわたしがあるというよりは、仮面そのものが〈わたし〉というキャラクターをつくりあげていく。それは全身化しガチャピンやムックになる。そうした〈仮面の全身化〉っていうのは定型という器が意味そのものを引き込んでいく川柳や短歌にもちょっと似ているんじゃないかとも思うんです。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:ふしぎな川柳-川柳百物語拾遺-