【感想】膝蹴りを暗い野原で受けている世界で一番素晴らしい俺 工藤吉生
- 2016/01/20
- 08:00
膝蹴りを暗い野原で受けている世界で一番素晴らしい俺 工藤吉生
【隅っこは、素晴らしい】
工藤さんの短歌でおもしろいのが〈世界の端っこ〉が〈称揚〉されているところなんじゃないかと思うんですよね。〈世界の端っこ〉がなんだか生き生きしている。
以前、
脇役のようにたたずむ 地下鉄のホームの隅で咳をしながら 工藤吉生
という歌の感想を書いたんですが、今あらためてみてみると「脇役のように」というのがこの歌のひとつの核なのかなとも思うんです。
いま自分は「地下鉄のホームの隅で咳をし」てはいるんだけれども、「脇役」という役割を与えられているように〈ふるまう〉ことができる。この「のように」と語り手が語れるところに〈脇役〉としてふるまえることの〈自意識〉がある。
「脇役」は「主役」ではないのだけれど、でも「脇役」としての役割を与えられていることは確かなんですよね。つまり、「地下鉄のホームの隅」をみずからのパフォーマティヴな空間にしている。この「たたずむ」も「咳をしながら」たたずむ、というよりも「脇役のように」〈脇役の役割をまっとうするために〉「たたずむ」というどこか〈世界の隅の活性化〉のようなところもあるんじゃないかとおもうんです。
膝蹴りの歌も「膝蹴り」ってすごくピンポイントですよね。「膝」で蹴られるので。ある意味で、ひとの身体の「隅」が際だって〈尖鋭化〉されてるわけです。「暗い野原」も〈世界〉にとっては〈隅〉です。「地下鉄のホームの隅」と相似的なのが「暗い野原」です。みんなが基本的に用のない場所ですよね。たたずんで咳をするときか、膝蹴りを食らうときにしか用のない場所です。
でも、そのときに、史上最大に〈生き生き〉している語り手がいる。「世界」があふれ、「一番」が発現し、「素晴らしい」と自己規定できる「俺」になることができる。
もちろん語り手はアイロニカルにこの世界に素晴らしいことなんてひとつもないんだってことにも膝蹴りをくらいながら気づいているのかもしれないけれども、それでもここには、暗い野原で膝蹴りを受けながらも隅っこさえも世界の素晴らしい中心として規定できてしまう「俺」がいる。
その「俺」のふしぎなタフネスがあるように、思う。
遠くには青みがかった街があり青みがかっているオレかなあ 工藤吉生
小津安二郎『お早う』(1959)。工藤さんの短歌について考えながら小津安二郎映画について考えていたんですが、小津安二郎映画の神経症的主題のひとつって〈隅っこの拒絶〉だったんではないかと思うんです。映画っていうのは〈隅っこ〉が実は生き生きと称揚されるものなんだけれども(計算できない思わぬものが映ったりする面白さ)、いやそうではないんだ、映画には〈中心〉しかないんだという。だからどんな人物も、対話のときも、会話のときも、人物が画面の真ん中にいる。真ん中にいて、こちらの〈わたし〉に話しかけてくる。そういう〈真ん中の詩学〉が小津映画なんではないかと思うんです。ひとは映画の隅っこに意味を見いだそうとするけれど、真ん中にブラックホールをつくることで、意味への欲動を宙づりにしてしまう。ひとは映画の〈どこ〉にいたらいいかわからなくて焦りはじめる。それが小津安二郎映画なのかなと。だから、こわいんです。
【隅っこは、素晴らしい】
工藤さんの短歌でおもしろいのが〈世界の端っこ〉が〈称揚〉されているところなんじゃないかと思うんですよね。〈世界の端っこ〉がなんだか生き生きしている。
以前、
脇役のようにたたずむ 地下鉄のホームの隅で咳をしながら 工藤吉生
という歌の感想を書いたんですが、今あらためてみてみると「脇役のように」というのがこの歌のひとつの核なのかなとも思うんです。
いま自分は「地下鉄のホームの隅で咳をし」てはいるんだけれども、「脇役」という役割を与えられているように〈ふるまう〉ことができる。この「のように」と語り手が語れるところに〈脇役〉としてふるまえることの〈自意識〉がある。
「脇役」は「主役」ではないのだけれど、でも「脇役」としての役割を与えられていることは確かなんですよね。つまり、「地下鉄のホームの隅」をみずからのパフォーマティヴな空間にしている。この「たたずむ」も「咳をしながら」たたずむ、というよりも「脇役のように」〈脇役の役割をまっとうするために〉「たたずむ」というどこか〈世界の隅の活性化〉のようなところもあるんじゃないかとおもうんです。
膝蹴りの歌も「膝蹴り」ってすごくピンポイントですよね。「膝」で蹴られるので。ある意味で、ひとの身体の「隅」が際だって〈尖鋭化〉されてるわけです。「暗い野原」も〈世界〉にとっては〈隅〉です。「地下鉄のホームの隅」と相似的なのが「暗い野原」です。みんなが基本的に用のない場所ですよね。たたずんで咳をするときか、膝蹴りを食らうときにしか用のない場所です。
でも、そのときに、史上最大に〈生き生き〉している語り手がいる。「世界」があふれ、「一番」が発現し、「素晴らしい」と自己規定できる「俺」になることができる。
もちろん語り手はアイロニカルにこの世界に素晴らしいことなんてひとつもないんだってことにも膝蹴りをくらいながら気づいているのかもしれないけれども、それでもここには、暗い野原で膝蹴りを受けながらも隅っこさえも世界の素晴らしい中心として規定できてしまう「俺」がいる。
その「俺」のふしぎなタフネスがあるように、思う。
遠くには青みがかった街があり青みがかっているオレかなあ 工藤吉生
小津安二郎『お早う』(1959)。工藤さんの短歌について考えながら小津安二郎映画について考えていたんですが、小津安二郎映画の神経症的主題のひとつって〈隅っこの拒絶〉だったんではないかと思うんです。映画っていうのは〈隅っこ〉が実は生き生きと称揚されるものなんだけれども(計算できない思わぬものが映ったりする面白さ)、いやそうではないんだ、映画には〈中心〉しかないんだという。だからどんな人物も、対話のときも、会話のときも、人物が画面の真ん中にいる。真ん中にいて、こちらの〈わたし〉に話しかけてくる。そういう〈真ん中の詩学〉が小津映画なんではないかと思うんです。ひとは映画の隅っこに意味を見いだそうとするけれど、真ん中にブラックホールをつくることで、意味への欲動を宙づりにしてしまう。ひとは映画の〈どこ〉にいたらいいかわからなくて焦りはじめる。それが小津安二郎映画なのかなと。だから、こわいんです。
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