【感想】食事の手とめてメールを打っている九月の光しずかなときを 永井祐
- 2014/07/09
- 05:04
食事の手とめてメールを打っている九月の光しずかなときを 永井祐
【移り気のなかで楽しく暮らす】
いい歌だなと思って何度か思い返しているうちにじつはその〈いい〉というのはこの歌の仕掛けなんじゃないかとおもい、感想を書いてみることにしました。
たとえばこれが〈いい〉なと思うのは、食事の手をとめてさえメールを書きたい相手がいる。そしてあたりはしずかに九月のひかりがみちている。語り手の情景さえもあなたへの手紙になっている。そんなよさがあるとおもうんです。これがわたしが感じたこの歌のよさです。
ただ永井さんの歌のおもしろさってその〈よさ〉を反転させる構造のしたたかさじゃないかとおもうんですね。
つまりさきどりしていうと、この歌は〈移り気〉なひとの歌なんじゃないかとおもうんです。
まず語り手の〈移り気〉は「食事の手とめて」にすでに表れています。もちろんこれはメールを打ちたいあいてへの想いへの〈移り気〉だとは思うんです。ですが、大事なことは構造として下の句にもういちど〈移り気〉がやってくるということです。この語り手のおもしろいところは、食事をやめてまであなたにメールを打ちたいとなったときに、あなたへのメールが下の句に展開されるのではなく、下の句であなたへのメールを書いているじぶんの風景が主題化されるわけです。
つまり、食事を止めてまでのあなたへの想いを、あ、こんな九月の光のなかであなたへのメールを書いてるじぶんっていいよね、が勝っちゃったわけです。これはこうした〈移り気〉のしたたかさとおもしろさがあるような歌だとおもうんですね。つまりもっというと、ここではロマンティックな仕掛けとして常套で使われてきた「光」が反転させられて、語り手の〈移り気〉として表象されている。ここにこのうたのおもしろさがあるんじゃないかとおもうんです。
たとえば、永井さんの有名なこのうた、
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね 永井祐
ここでも「月」というロマンティックな修辞の系譜が脱臼されるようなかたちで、ひらたくいえば、全開スルーされるかたちで使われています。下の句で、ずっこけるわけです。さきほどの視点をもちだせば、ここにおいても語り手の〈移り気〉がみられるとおもいます。〈月〉の主題から〈帰る〉主題への移譲が、上の句から下の句への移行において行われているわけです。もっといえば、ロマンティックな情景になると語り手の〈移り気〉の主題がでてくるのかもしれない、ともおもうんです。
これはかんがえてみると、短歌だからこそ構造的にさぐることのできる主題だとおもいます。俳句や川柳で〈移り気〉の主題をしようとしても、「二物衝撃」のような意外な組み合わせのレトリックとして処理されてしまうようにおもうんですね。
だからこうした永井さんの〈移り気〉短歌にそれまでの短歌の構造の系譜をうらがえすような、脱臼させるようななにかがあるんじゃないだろうかとおもったりします。たとえば、つぎのような歌にも。
君に会いたい君に会いたい 雪の道 聖書はいくらぐらいだろうか 永井祐
【移り気のなかで楽しく暮らす】
いい歌だなと思って何度か思い返しているうちにじつはその〈いい〉というのはこの歌の仕掛けなんじゃないかとおもい、感想を書いてみることにしました。
たとえばこれが〈いい〉なと思うのは、食事の手をとめてさえメールを書きたい相手がいる。そしてあたりはしずかに九月のひかりがみちている。語り手の情景さえもあなたへの手紙になっている。そんなよさがあるとおもうんです。これがわたしが感じたこの歌のよさです。
ただ永井さんの歌のおもしろさってその〈よさ〉を反転させる構造のしたたかさじゃないかとおもうんですね。
つまりさきどりしていうと、この歌は〈移り気〉なひとの歌なんじゃないかとおもうんです。
まず語り手の〈移り気〉は「食事の手とめて」にすでに表れています。もちろんこれはメールを打ちたいあいてへの想いへの〈移り気〉だとは思うんです。ですが、大事なことは構造として下の句にもういちど〈移り気〉がやってくるということです。この語り手のおもしろいところは、食事をやめてまであなたにメールを打ちたいとなったときに、あなたへのメールが下の句に展開されるのではなく、下の句であなたへのメールを書いているじぶんの風景が主題化されるわけです。
つまり、食事を止めてまでのあなたへの想いを、あ、こんな九月の光のなかであなたへのメールを書いてるじぶんっていいよね、が勝っちゃったわけです。これはこうした〈移り気〉のしたたかさとおもしろさがあるような歌だとおもうんですね。つまりもっというと、ここではロマンティックな仕掛けとして常套で使われてきた「光」が反転させられて、語り手の〈移り気〉として表象されている。ここにこのうたのおもしろさがあるんじゃないかとおもうんです。
たとえば、永井さんの有名なこのうた、
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね 永井祐
ここでも「月」というロマンティックな修辞の系譜が脱臼されるようなかたちで、ひらたくいえば、全開スルーされるかたちで使われています。下の句で、ずっこけるわけです。さきほどの視点をもちだせば、ここにおいても語り手の〈移り気〉がみられるとおもいます。〈月〉の主題から〈帰る〉主題への移譲が、上の句から下の句への移行において行われているわけです。もっといえば、ロマンティックな情景になると語り手の〈移り気〉の主題がでてくるのかもしれない、ともおもうんです。
これはかんがえてみると、短歌だからこそ構造的にさぐることのできる主題だとおもいます。俳句や川柳で〈移り気〉の主題をしようとしても、「二物衝撃」のような意外な組み合わせのレトリックとして処理されてしまうようにおもうんですね。
だからこうした永井さんの〈移り気〉短歌にそれまでの短歌の構造の系譜をうらがえすような、脱臼させるようななにかがあるんじゃないだろうかとおもったりします。たとえば、つぎのような歌にも。
君に会いたい君に会いたい 雪の道 聖書はいくらぐらいだろうか 永井祐
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