【感想】牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服 関悦史
- 2016/01/23
- 08:32
牛久のスーパーCGほどの美少女歩み来しかも白服 関悦史
アロハシャツ着てテレビ捨てにゆく 小倉喜郎
【〈しかも〉の立ち位置】
さいきん小倉さんの句集をずっと読んでいてすごく面白かったんですが、ふっと、あっ、俳句と川柳の違いってこういうことなんだなあって思ったんですね。
小倉さんご本人にも申し上げたことがあるんですが、小倉さんの俳句ってちょっと川柳にも近いんですね。なんでだろうって思ったんだけれど、これは私の考えなんだけれど、〈季語が目立たない〉んだと思うんですよ、小倉さんの俳句には。
575のなかで季語だけが突出するというか、凸凹(でこぼこ)になることがない。
たとえば上の句をみてもらえばわかるように、これだけだと俳句を知らないひとはたぶん「アロハシャツ」が季語だとはおもわないと思うんですよ。あまりにも融け込んでいるから。
でも、それでもですね、小倉さんの句集を読んでいてこれも気が付いたことなんだけれど、小倉さんの句は川柳ではなくて俳句なんです。で、それってなんだろうって考えたときに、それは〈季語に対するスタンス〉なんです。小倉さんの俳句は季語に対するスタンスが、季語を特権化せず、句の構造のなかにそれとなくとけ込ませるようにできている。そういうスタンスをとっている点で、〈俳句〉なんだとおもうんですね。だから〈俳句〉って自身が季語に対して〈どう〉スタンスを取るかという文芸なんじゃないかとおもうんです(川柳にはだからそのスタンスの確保という葛藤はとくにないんですよ)。
で、関さんの俳句なのですが、この句の季語は「白服」です。で、この句のスタンスをみてみた場合、おもしろいのが、季語に対して〈しかも〉扱いをしているってことです。関さんの俳句において季語って〈余剰〉としてあるんじゃないかと思うんですね。別の言い方をすれば、〈代補〉というか。サプリメントのようなもので、あればあれでそれは重要なんだけれども、なかったらなかったでそれでもいいという。けれどもその〈代補〉によって決定的に質感が決められてしまう。そういうものを象徴的にあらわしているのが、「しかも」という季語の前におかれた接続詞なんじゃないかと思うんですよ。
一椀の暗黒物質(ダークマター)の初笑 関悦史
『ビニ本の女・秘奥覗き』(1981)。さいきんメディア史の本をいろいろ読んでいくなかでアダルトビデオの歴史を読む機会があったんですが、〈アダルトビデオ〉がはじめて発明されたのは1981年の「ビニ本の女・秘奥覗き」というAVによってなんです。で、あらためて考えてみると、〈アダルトビデオ〉と〈ビデオ〉と名前がついているように、アダルトビデオにとって80年代初頭からの〈家庭用ビデオの普及〉というメディア環境の変化は切手も切り離せないものがあった。これは推測なんですが、映画館のポルノ映画ではなく、ビデオという〈個室〉志向の作品になることによって、アダルトビデオの描写というか語り方も変わっていったんじゃないかと思うんです。たとえば、1982年には〈インタビューもの〉のAVがでてくるんですが、そういうアダルトビデオのなかで〈インタビュー〉がまず最初に入るという語り方もメディアの個室化と関係があるのではないかと思うんです。そういうメディアが語りのスタンスを決める場合があるのではないかと。
アロハシャツ着てテレビ捨てにゆく 小倉喜郎
【〈しかも〉の立ち位置】
さいきん小倉さんの句集をずっと読んでいてすごく面白かったんですが、ふっと、あっ、俳句と川柳の違いってこういうことなんだなあって思ったんですね。
小倉さんご本人にも申し上げたことがあるんですが、小倉さんの俳句ってちょっと川柳にも近いんですね。なんでだろうって思ったんだけれど、これは私の考えなんだけれど、〈季語が目立たない〉んだと思うんですよ、小倉さんの俳句には。
575のなかで季語だけが突出するというか、凸凹(でこぼこ)になることがない。
たとえば上の句をみてもらえばわかるように、これだけだと俳句を知らないひとはたぶん「アロハシャツ」が季語だとはおもわないと思うんですよ。あまりにも融け込んでいるから。
でも、それでもですね、小倉さんの句集を読んでいてこれも気が付いたことなんだけれど、小倉さんの句は川柳ではなくて俳句なんです。で、それってなんだろうって考えたときに、それは〈季語に対するスタンス〉なんです。小倉さんの俳句は季語に対するスタンスが、季語を特権化せず、句の構造のなかにそれとなくとけ込ませるようにできている。そういうスタンスをとっている点で、〈俳句〉なんだとおもうんですね。だから〈俳句〉って自身が季語に対して〈どう〉スタンスを取るかという文芸なんじゃないかとおもうんです(川柳にはだからそのスタンスの確保という葛藤はとくにないんですよ)。
で、関さんの俳句なのですが、この句の季語は「白服」です。で、この句のスタンスをみてみた場合、おもしろいのが、季語に対して〈しかも〉扱いをしているってことです。関さんの俳句において季語って〈余剰〉としてあるんじゃないかと思うんですね。別の言い方をすれば、〈代補〉というか。サプリメントのようなもので、あればあれでそれは重要なんだけれども、なかったらなかったでそれでもいいという。けれどもその〈代補〉によって決定的に質感が決められてしまう。そういうものを象徴的にあらわしているのが、「しかも」という季語の前におかれた接続詞なんじゃないかと思うんですよ。
一椀の暗黒物質(ダークマター)の初笑 関悦史
『ビニ本の女・秘奥覗き』(1981)。さいきんメディア史の本をいろいろ読んでいくなかでアダルトビデオの歴史を読む機会があったんですが、〈アダルトビデオ〉がはじめて発明されたのは1981年の「ビニ本の女・秘奥覗き」というAVによってなんです。で、あらためて考えてみると、〈アダルトビデオ〉と〈ビデオ〉と名前がついているように、アダルトビデオにとって80年代初頭からの〈家庭用ビデオの普及〉というメディア環境の変化は切手も切り離せないものがあった。これは推測なんですが、映画館のポルノ映画ではなく、ビデオという〈個室〉志向の作品になることによって、アダルトビデオの描写というか語り方も変わっていったんじゃないかと思うんです。たとえば、1982年には〈インタビューもの〉のAVがでてくるんですが、そういうアダルトビデオのなかで〈インタビュー〉がまず最初に入るという語り方もメディアの個室化と関係があるのではないかと思うんです。そういうメディアが語りのスタンスを決める場合があるのではないかと。
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