【感想】子の友の中の少女や啄木忌 安住敦
- 2016/01/25
- 13:34
子の友の中の少女や啄木忌 安住敦
【生の測量士】
安住敦の俳句を読みながら、定型のなかの〈距離〉そのものに生が宿る場合もあるのかなってふと思って、たとえば上の句なんですが、
「子の友の中の少女や」って穂村さんのあの有名な「恋人」の歌みたいに長いですよね。長いし、なんだかまだるっこしい。
でも26歳で死んだ啄木にはこの〈生のまだるっこしさ〉がなかったと思うんですよ。26でさくっと死んでしまった。その啄木の命日に語り手は「子の友の中の少女や」とこれからを生きる子どもたちのまだるっこしい生のネットワークを語っている。
風邪ぐすり嚥むや喪の家より戻り 安住敦
この句も、「喪の家」から帰ってきて、「風邪ぐすり」を飲むってことは、〈これからの生〉の句なんですよね。この「風邪ぐすり嚥む」という行為の(音数の)長さに対して、〈死〉は「喪」(mo)とたった一音しか発音されない。でも語り手はこれから長い音数のまだるっこしさをかかえて、風邪ぐすりを飲んで、生きていかなくちゃならない。
思い返せばさっきのもそういう「忌(ki)」との生の非対称的長さがあったのかなって思うんですよ。
生きていくにんげんにとっては、夜はとっても〈長い〉ものなんですよ。
ひとり夜を更かすに馴れし膝に毛布 安住敦
清水浩『生きない』(1998)。この映画のおもしろさって、〈生きる〉こともまだるっこしいんだけれども、〈生きない〉こともまだるっこしい。でもそのまだるっこしさのなかでぐずぐずしているときに、ふっと救いみたいなのが出てくるときがあるんじゃないかってことだと思うんですよ。〈生きる〉ってぎらぎらしているときよりも、むしろそういうぐずぐずのなかで、ひかりがさすこともあるっていうことです。むしろそういう状態のなかでしか感じられないひかりもある。そのぐずぐずした感じと、ふっとさすひかりのかんじが、とてもうまく描かれている映画だとおもいます。ひとには〈しにたい〉ときもあるのかもしれないけれど、でも〈しにたい〉を〈いきない〉に変えて〈ぐずぐず〉することは、できる。
【生の測量士】
安住敦の俳句を読みながら、定型のなかの〈距離〉そのものに生が宿る場合もあるのかなってふと思って、たとえば上の句なんですが、
「子の友の中の少女や」って穂村さんのあの有名な「恋人」の歌みたいに長いですよね。長いし、なんだかまだるっこしい。
でも26歳で死んだ啄木にはこの〈生のまだるっこしさ〉がなかったと思うんですよ。26でさくっと死んでしまった。その啄木の命日に語り手は「子の友の中の少女や」とこれからを生きる子どもたちのまだるっこしい生のネットワークを語っている。
風邪ぐすり嚥むや喪の家より戻り 安住敦
この句も、「喪の家」から帰ってきて、「風邪ぐすり」を飲むってことは、〈これからの生〉の句なんですよね。この「風邪ぐすり嚥む」という行為の(音数の)長さに対して、〈死〉は「喪」(mo)とたった一音しか発音されない。でも語り手はこれから長い音数のまだるっこしさをかかえて、風邪ぐすりを飲んで、生きていかなくちゃならない。
思い返せばさっきのもそういう「忌(ki)」との生の非対称的長さがあったのかなって思うんですよ。
生きていくにんげんにとっては、夜はとっても〈長い〉ものなんですよ。
ひとり夜を更かすに馴れし膝に毛布 安住敦
清水浩『生きない』(1998)。この映画のおもしろさって、〈生きる〉こともまだるっこしいんだけれども、〈生きない〉こともまだるっこしい。でもそのまだるっこしさのなかでぐずぐずしているときに、ふっと救いみたいなのが出てくるときがあるんじゃないかってことだと思うんですよ。〈生きる〉ってぎらぎらしているときよりも、むしろそういうぐずぐずのなかで、ひかりがさすこともあるっていうことです。むしろそういう状態のなかでしか感じられないひかりもある。そのぐずぐずした感じと、ふっとさすひかりのかんじが、とてもうまく描かれている映画だとおもいます。ひとには〈しにたい〉ときもあるのかもしれないけれど、でも〈しにたい〉を〈いきない〉に変えて〈ぐずぐず〉することは、できる。
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