【ふしぎな川柳 第六十七夜】テレビの〈外〉へ-宮田あきら-
- 2016/01/28
- 13:09
テレビ受像 マラソン走者掌を挙げて落下(おち) 宮田あきら
ネット生中継頭に石が当たる 関悦史
不如意な感じを感じなければならない。肯定的な世界や、なんかわからんけどポジティヴなヴァイブレーションは、自分を温存していては描けない。フレームからはみ出る部分を注視しなければならない。 町田康『新潮』2010年7月
【フレームは、痛い】
わたし、関さんのこの句について昔からずっと考えていて、宮田あきらの川柳をみたときに、あっ、こういうことなんだろうかと気になっていたことが自分なりにわかった気がして書いてみようと思うんですが、どちらもテレビというか映像の〈外部〉を扱っていると思うんですよ。
「掌を挙げて落下」る、「石が当たる」そのまず〈痛み〉ですね。それは映像の外にあるものなんですよ。だからここにはまず映像の外部がある。
でもその〈痛み〉が生成しているのは、まさにいま「受像」されている映像そのものによってなんですね。
映像というフレームがあるからこそ、外〈へ〉と落ちたり、外〈から〉石が飛んできて当たったりするわけです。それってそもそもが映像というフレーム感覚の〈痛み〉だと思うんですよ。
実はちょっとこのフレームの身体感覚というか可傷感覚って定型とも関わってくるのかなあとも思うんですね。
短詩をめぐるわたしたちの痛みは、定型の外からくるものなのか、それとも内側からきているのか、それともそのうちとそとを成り立たせているフレームからきているものなのか。そもそも定型をめぐる身体の傷ってどうたちあがっているのか。
そういうのがフレーム論としてこの二句にはあるようにおもうんですよ。
傷口! 夕陽滴り滴りやまず 小泉十子尾
トリュフォー『アメリカの夜』(1973)。映画を撮ることを映画にしている映画ってたくさんあるけれど、これもそのなかのひとつです。で、映画を撮るなかでトリュフォーがベッドのうえですごくうなされたり苦しんでいるんだけれど、映画を撮るっていうのは日常的なフレームが破綻していく行為なんじゃないかと思うんですね。たとえば映画を撮っていくなかで、映画フレームと私的フレームのせめぎあいが出てくる。トリュフォー映画ではおなじみのジャン・ピエール=レオがなんだかまぬけな恋愛をして女優を怒らせたりしている(たしか)。三谷幸喜の『ラヂオの時間』もそうだけれど、映画ってそういうフレームの緊張感がたえずある映画がいい映画なんじゃないかと思うんです。むしろ、俳優っていうのは身体にそういうフレームをたえず葛藤させながら演技しているのでないだろうか。
ネット生中継頭に石が当たる 関悦史
不如意な感じを感じなければならない。肯定的な世界や、なんかわからんけどポジティヴなヴァイブレーションは、自分を温存していては描けない。フレームからはみ出る部分を注視しなければならない。 町田康『新潮』2010年7月
【フレームは、痛い】
わたし、関さんのこの句について昔からずっと考えていて、宮田あきらの川柳をみたときに、あっ、こういうことなんだろうかと気になっていたことが自分なりにわかった気がして書いてみようと思うんですが、どちらもテレビというか映像の〈外部〉を扱っていると思うんですよ。
「掌を挙げて落下」る、「石が当たる」そのまず〈痛み〉ですね。それは映像の外にあるものなんですよ。だからここにはまず映像の外部がある。
でもその〈痛み〉が生成しているのは、まさにいま「受像」されている映像そのものによってなんですね。
映像というフレームがあるからこそ、外〈へ〉と落ちたり、外〈から〉石が飛んできて当たったりするわけです。それってそもそもが映像というフレーム感覚の〈痛み〉だと思うんですよ。
実はちょっとこのフレームの身体感覚というか可傷感覚って定型とも関わってくるのかなあとも思うんですね。
短詩をめぐるわたしたちの痛みは、定型の外からくるものなのか、それとも内側からきているのか、それともそのうちとそとを成り立たせているフレームからきているものなのか。そもそも定型をめぐる身体の傷ってどうたちあがっているのか。
そういうのがフレーム論としてこの二句にはあるようにおもうんですよ。
傷口! 夕陽滴り滴りやまず 小泉十子尾
トリュフォー『アメリカの夜』(1973)。映画を撮ることを映画にしている映画ってたくさんあるけれど、これもそのなかのひとつです。で、映画を撮るなかでトリュフォーがベッドのうえですごくうなされたり苦しんでいるんだけれど、映画を撮るっていうのは日常的なフレームが破綻していく行為なんじゃないかと思うんですね。たとえば映画を撮っていくなかで、映画フレームと私的フレームのせめぎあいが出てくる。トリュフォー映画ではおなじみのジャン・ピエール=レオがなんだかまぬけな恋愛をして女優を怒らせたりしている(たしか)。三谷幸喜の『ラヂオの時間』もそうだけれど、映画ってそういうフレームの緊張感がたえずある映画がいい映画なんじゃないかと思うんです。むしろ、俳優っていうのは身体にそういうフレームをたえず葛藤させながら演技しているのでないだろうか。
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