【感想】DDDD圧倒的にDの海 佐々木貴子
- 2016/01/28
- 19:39
DDDD圧倒的にDの海 佐々木貴子
tttふいに過ぎゆく子らや秋 鴇田智哉
۵ 石原ユキオ
【神さまの俳句】
ときどき思うのが、川柳もたくさんへんな句があるんだけれど、実は俳句のほうがもっとヘンなところにとつぜん近づいてしまったりするのではないかということです。
さいきん楠本憲吉さんの『戦後の俳句』を読んでいるんですが(楠本さんの本は俳句も川柳もわかりやすくていい)、新興俳句のところを読んでいるとやっぱりヘンな句がけっこうたくさんあるんですね。新興俳句っていかに俳句から抜け出るかを俳句で問おうみたいなところがあったとおもうんです。
で、さいきん並行して筑紫磐井さんの本も読んでいたんだけれど、磐井さんがいうには伝統俳句と新興俳句はべつべつに育ったというよりは、お互いがばねになりあいながら必要としあいながらそれぞれの形態をつくりあっていったんじゃないかみたいなことを書かれていました。
で、私なりに考えると、それってやっぱりなにか新しいことをするときってどうしても抑圧が必要なんじゃないかってことだとおもうんです。なんにもないところからではなくて、自分にとってのよそものを必要とするというか。
で、それを広げてみると、俳句って季語とか定型とか文語とかともかく何重もの抑圧がかかってる文芸なんじゃないかとおもうんですね。だからこそ、そのときにその抑圧をばねにしたとき、すごくヘンな俳句ができるんじゃないかとおもうんです(もちろん、ヘンっていうのはひとそれぞれですよね。私が勝手にヘンの偏差をつくってるだけで。アルファベットが俳句に並んでいてもヘンじゃないかもしれないので)。
この貴子さんの「D」や鴇田さんの「t」、ユキオさんの「 ۵」って、(考えてみればあたりまえだろっていわれそうなんだけれど)、もはや意味としてあらわれていないっていうのが特徴なのかなっておもいます。
貴子さんの句の「圧倒的に」とか、鴇田さんの「ふいに過ぎゆく」っていうのは、意味に発現する手前のところで《非意味として先取られてしまったなにか》のようにおもうんですよね。
たとえばパソコンで「タ」を入力するとちゅうに、taって打つんだけど、t が点滅してみえたりしますよね。もしくはなんか手をとめたとにに、t が点滅してたり。そういう意味になるまえの《風景》にこのさんにんの語り手たちは出くわしてしまったのかなあっておもうんです。だからある意味、言語が崩壊した、アルファベットの風景のなかにいる。バベルの塔が崩壊した瓦礫の現場のなかで水や風や喪失をみている(ユキオさんのはゾンビ俳句なので、たぶん語り手の理性も身体もほとんどないとおもうんです)。
で、そういうヘンな俳句によってあらわれてしまったヘンな風景がみえるのが、俳句ってすごくおもしろいなとおもうんですね。
ただこのDやtや ۵ の質感って、古池にとびこんだ蛙の起こした波紋とか音波がこんなかんじであらわせるのかなあとも、おもったりします。その意味では芭蕉につながってる(ただ伝統俳句って芭蕉とはつながっていなくて、どうも虚子につながってるらしいんだけど)。
あるいは、神さまがはじめて俳句をつくるとこんなかんじの風景がみえたりするのかも、とか(中山奈々さんがたしかブッダが俳句をつくったらどうなるのかと問題提起していらした)。
造物主とその知恵のように立つてペンギンたち 吉岡禅寺洞
ヒッチコック『鳥』(1963)。この映画の面白さって、過剰な鳥の現出によって、鳥が鳥でなくなっていくこわさと、そのことによって風景もこわれていってしまうところがあるんじゃないかと思うんですよ。鳥もまた風景を構成する要素だったんだけれど、鳥が一気にふえて風景もこわれていく。で、風景がこわれるとどうなるかというと、ひとってくるうんですよね。そうすると、風景と人の正気の主体って一体なんだなあっておもうんです。これは関悦史さんが鼎談でおっしゃってたことなんだけれど、アニメなんかでは、メッセージ性の強いときは、背景が緻密になるそうです。関さんはスタジオジブリのアニメを例にとられていたんですが、風景が緻密っていうことは主体が非常に適格に決まっているってことなんじゃないかとおもうんですよね。だとしたら、《壊れた風景》のなかにある《壊れた俳句》はどうなるんだろうとかいろいろそこからおもしろいテーマがでてくるようにもおもうんです。
tttふいに過ぎゆく子らや秋 鴇田智哉
۵ 石原ユキオ
【神さまの俳句】
ときどき思うのが、川柳もたくさんへんな句があるんだけれど、実は俳句のほうがもっとヘンなところにとつぜん近づいてしまったりするのではないかということです。
さいきん楠本憲吉さんの『戦後の俳句』を読んでいるんですが(楠本さんの本は俳句も川柳もわかりやすくていい)、新興俳句のところを読んでいるとやっぱりヘンな句がけっこうたくさんあるんですね。新興俳句っていかに俳句から抜け出るかを俳句で問おうみたいなところがあったとおもうんです。
で、さいきん並行して筑紫磐井さんの本も読んでいたんだけれど、磐井さんがいうには伝統俳句と新興俳句はべつべつに育ったというよりは、お互いがばねになりあいながら必要としあいながらそれぞれの形態をつくりあっていったんじゃないかみたいなことを書かれていました。
で、私なりに考えると、それってやっぱりなにか新しいことをするときってどうしても抑圧が必要なんじゃないかってことだとおもうんです。なんにもないところからではなくて、自分にとってのよそものを必要とするというか。
で、それを広げてみると、俳句って季語とか定型とか文語とかともかく何重もの抑圧がかかってる文芸なんじゃないかとおもうんですね。だからこそ、そのときにその抑圧をばねにしたとき、すごくヘンな俳句ができるんじゃないかとおもうんです(もちろん、ヘンっていうのはひとそれぞれですよね。私が勝手にヘンの偏差をつくってるだけで。アルファベットが俳句に並んでいてもヘンじゃないかもしれないので)。
この貴子さんの「D」や鴇田さんの「t」、ユキオさんの「 ۵」って、(考えてみればあたりまえだろっていわれそうなんだけれど)、もはや意味としてあらわれていないっていうのが特徴なのかなっておもいます。
貴子さんの句の「圧倒的に」とか、鴇田さんの「ふいに過ぎゆく」っていうのは、意味に発現する手前のところで《非意味として先取られてしまったなにか》のようにおもうんですよね。
たとえばパソコンで「タ」を入力するとちゅうに、taって打つんだけど、t が点滅してみえたりしますよね。もしくはなんか手をとめたとにに、t が点滅してたり。そういう意味になるまえの《風景》にこのさんにんの語り手たちは出くわしてしまったのかなあっておもうんです。だからある意味、言語が崩壊した、アルファベットの風景のなかにいる。バベルの塔が崩壊した瓦礫の現場のなかで水や風や喪失をみている(ユキオさんのはゾンビ俳句なので、たぶん語り手の理性も身体もほとんどないとおもうんです)。
で、そういうヘンな俳句によってあらわれてしまったヘンな風景がみえるのが、俳句ってすごくおもしろいなとおもうんですね。
ただこのDやtや ۵ の質感って、古池にとびこんだ蛙の起こした波紋とか音波がこんなかんじであらわせるのかなあとも、おもったりします。その意味では芭蕉につながってる(ただ伝統俳句って芭蕉とはつながっていなくて、どうも虚子につながってるらしいんだけど)。
あるいは、神さまがはじめて俳句をつくるとこんなかんじの風景がみえたりするのかも、とか(中山奈々さんがたしかブッダが俳句をつくったらどうなるのかと問題提起していらした)。
造物主とその知恵のように立つてペンギンたち 吉岡禅寺洞
ヒッチコック『鳥』(1963)。この映画の面白さって、過剰な鳥の現出によって、鳥が鳥でなくなっていくこわさと、そのことによって風景もこわれていってしまうところがあるんじゃないかと思うんですよ。鳥もまた風景を構成する要素だったんだけれど、鳥が一気にふえて風景もこわれていく。で、風景がこわれるとどうなるかというと、ひとってくるうんですよね。そうすると、風景と人の正気の主体って一体なんだなあっておもうんです。これは関悦史さんが鼎談でおっしゃってたことなんだけれど、アニメなんかでは、メッセージ性の強いときは、背景が緻密になるそうです。関さんはスタジオジブリのアニメを例にとられていたんですが、風景が緻密っていうことは主体が非常に適格に決まっているってことなんじゃないかとおもうんですよね。だとしたら、《壊れた風景》のなかにある《壊れた俳句》はどうなるんだろうとかいろいろそこからおもしろいテーマがでてくるようにもおもうんです。
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