【ふしぎな川柳 第七十夜】〈の〉から考えるオズの国-なかはられいこ-
- 2016/01/31
- 23:51
産院の窓の向こうのオズの国 なかはられいこ
現代川柳と言われる以前、戦前から切れ字などは使っていますが、中に意地を張っている人が、川柳の「や」はすべて「の」だと主張したことがあります。 石田柊馬『脱衣場のアリス』
【「の」のお話】
この石田柊馬さんのおっしゃってることってちょっとおもしろいなって思って、俳句でたとえば「古池や」とかありますよね、その「や」が川柳では「の」になるっていうんですよね。
でね、「や」って切れ字じゃないですか。だからそれで切れるわけですよね。俳句って切る文芸だから、「古池や」でいちどばっさり切ってそれからカエルをダイヴさせる。
でも、ここを「の」にすると、切れないで続いていくわけですよ。だから、川柳って切らない文芸なんですよ。この柊馬さんの言葉を敷衍すれば。で、切れない文芸ってどういうことかっていうと、〈引きずる文芸〉だっていうことです。
かえるがもし古池にとびこむとしたら、古池を背負って飛び込まないといけない。「古池の蛙」になるので。で、背負うということはですね、この「の」たった一音で、〈内面〉が生まれるということになります。歴史性といえばいいんでしょうか。古池のカエル、と古池を背負うことでカエルのキャラクター性というか奥行きがでてくる。
だから、「の」ってちょっととんでもないなと思うし、もしかしたらこの「の性」に現代川柳ってあるのかもしれないってちょっと思ったんです。
で、なかはらさんの句なんですが、やっぱり「の的」にはとんでもないことになっている句なんです。
産院の窓の向こうのオズの国 なかはられいこ
「の」がすごくふんだんに使われているんですね。産院〈の〉窓〈の〉向こう〈の〉オズ〈の〉って、もう強迫のように使われている。で、「の」っていうのは〈引きずる行為〉ですから、この語り手って、すべてを引きずって「オズの国」を見ているわけです。
で、それって裏返していうと、絶対に「オズの国」に到達できないことがわかっていることの言語的な裏返しだと思うんですよ。ここまであからさまに「の」で引きずっていく。「産院」から始まるなにかをすべて背負いこもうとしている。でも最終的に「の」の連打でたどりつこうとしているのはフィクショナルな「オズの国」です。語り手はどこにも行けないんですよ。どこにも行けないんだけれど、でも言語的には〈これでもか〉っていうくらいにどこかに行こうとしている。それがこの〈の〉から考えるオズの国の句なんじゃないかっておもうんです。
たった一音が、むしろ、心理的なんですよ。川柳では。
切ることを知らない道を選んだ川柳にとっては、たった一音が精神分析的なんじゃないかと、おもうんです。
もちろん、この句が収められた句集のタイトルは、「脱衣場〈の〉アリス」なんです。
瞳の奥のそのまた奥の針葉樹林 なかはられいこ
スクウェア『ファイナルファンタジー』(1987)。ファイナルファンタジーってタイトルが矛盾しているのがみそだと思っていて、〈最後〉の〈幻想〉っていう、最後なんだけれど、でもその最後が幻想物語だから終わらないっていう矛盾をはらんだものだと思うんですね。で、実際、ファイナルファンタジーシリーズのラスボスっていうのは哲学的というか、自己矛盾しているひとが多くて、世界征服とか支配とかそういうことではなくて、ラスボスたちが関心があるのは 〈自分は誰か〉ということだったりします。つまり、終わりがないということは目的論的になれず、たえず自分じしんに対して〈自分は誰か〉って問いかけるしかない。これが『ドラゴンクエスト』っていうドラゴンを駆逐するというタイトルの場合、目的がはっきりしているので目的論的にラスボスたちもなることができて世界の支配という目的がかなりはっきりしてくるんです。そういう違いがあるように思う。切れないファイナルファンタジーと、切れるドラゴンクエスト。
現代川柳と言われる以前、戦前から切れ字などは使っていますが、中に意地を張っている人が、川柳の「や」はすべて「の」だと主張したことがあります。 石田柊馬『脱衣場のアリス』
【「の」のお話】
この石田柊馬さんのおっしゃってることってちょっとおもしろいなって思って、俳句でたとえば「古池や」とかありますよね、その「や」が川柳では「の」になるっていうんですよね。
でね、「や」って切れ字じゃないですか。だからそれで切れるわけですよね。俳句って切る文芸だから、「古池や」でいちどばっさり切ってそれからカエルをダイヴさせる。
でも、ここを「の」にすると、切れないで続いていくわけですよ。だから、川柳って切らない文芸なんですよ。この柊馬さんの言葉を敷衍すれば。で、切れない文芸ってどういうことかっていうと、〈引きずる文芸〉だっていうことです。
かえるがもし古池にとびこむとしたら、古池を背負って飛び込まないといけない。「古池の蛙」になるので。で、背負うということはですね、この「の」たった一音で、〈内面〉が生まれるということになります。歴史性といえばいいんでしょうか。古池のカエル、と古池を背負うことでカエルのキャラクター性というか奥行きがでてくる。
だから、「の」ってちょっととんでもないなと思うし、もしかしたらこの「の性」に現代川柳ってあるのかもしれないってちょっと思ったんです。
で、なかはらさんの句なんですが、やっぱり「の的」にはとんでもないことになっている句なんです。
産院の窓の向こうのオズの国 なかはられいこ
「の」がすごくふんだんに使われているんですね。産院〈の〉窓〈の〉向こう〈の〉オズ〈の〉って、もう強迫のように使われている。で、「の」っていうのは〈引きずる行為〉ですから、この語り手って、すべてを引きずって「オズの国」を見ているわけです。
で、それって裏返していうと、絶対に「オズの国」に到達できないことがわかっていることの言語的な裏返しだと思うんですよ。ここまであからさまに「の」で引きずっていく。「産院」から始まるなにかをすべて背負いこもうとしている。でも最終的に「の」の連打でたどりつこうとしているのはフィクショナルな「オズの国」です。語り手はどこにも行けないんですよ。どこにも行けないんだけれど、でも言語的には〈これでもか〉っていうくらいにどこかに行こうとしている。それがこの〈の〉から考えるオズの国の句なんじゃないかっておもうんです。
たった一音が、むしろ、心理的なんですよ。川柳では。
切ることを知らない道を選んだ川柳にとっては、たった一音が精神分析的なんじゃないかと、おもうんです。
もちろん、この句が収められた句集のタイトルは、「脱衣場〈の〉アリス」なんです。
瞳の奥のそのまた奥の針葉樹林 なかはられいこ
スクウェア『ファイナルファンタジー』(1987)。ファイナルファンタジーってタイトルが矛盾しているのがみそだと思っていて、〈最後〉の〈幻想〉っていう、最後なんだけれど、でもその最後が幻想物語だから終わらないっていう矛盾をはらんだものだと思うんですね。で、実際、ファイナルファンタジーシリーズのラスボスっていうのは哲学的というか、自己矛盾しているひとが多くて、世界征服とか支配とかそういうことではなくて、ラスボスたちが関心があるのは 〈自分は誰か〉ということだったりします。つまり、終わりがないということは目的論的になれず、たえず自分じしんに対して〈自分は誰か〉って問いかけるしかない。これが『ドラゴンクエスト』っていうドラゴンを駆逐するというタイトルの場合、目的がはっきりしているので目的論的にラスボスたちもなることができて世界の支配という目的がかなりはっきりしてくるんです。そういう違いがあるように思う。切れないファイナルファンタジーと、切れるドラゴンクエスト。
- 関連記事
-
-
【ふしぎな川柳 第九十九夜】すべての夜の終わりに-小池正博- 2016/05/07
-
【ふしぎな川柳 第十二夜】わたしの運命-竹井紫乙- 2015/11/09
-
【ふしぎな川柳 第四夜】ゴリラゴリラゴリ-普川素床- 2015/11/04
-
【ふしぎな川柳 第三十三夜】ただしくなくて、いい-久保田紺- 2015/11/25
-
【ふしぎな川柳 第十三夜】さようならの研究-森中惠美子- 2015/11/11
-
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:ふしぎな川柳-川柳百物語拾遺-