【ふしぎな川柳 第七十二夜】不思議通信-妹尾凛-
- 2016/02/01
- 12:40
きのうのラジオからきのうのお天気 妹尾凛
そちらは雨です こちらは菫です 〃
真夜中ひとりで黙っていると
遠く遠くから電話がかかる
もしもし少しつらい夜です
きみの窓の灯りを想っています
百億光年はるか彼方の
きみをなぜだか信じられます
銀河はめぐり星は消えても
ひとつの想いは消えず流れる
谷山浩子「銀河通信」
【川柳は、受信】
谷山浩子さんの「銀河通信」って、知らない星から電話がかかってきてしまう歌なんですが、ここにある不思議って、〈知らないひとに今のわたしを瞬時に託してしまう不思議さ〉だと思うんですね。
で、なんで根拠もなくじぶんのすべてを知らないひとに明け渡すことができたかっていうとそれは〈通信〉の不思議さなんじゃないかっておもうんですよ。大切なひとだからつながることができた、じゃなくて、反対に、つながれたから大切なひとだと思った、と勘違いしてしまう構図がここにあるんじゃないか。
で、川柳にもなぜか〈通信〉してしまう句ってたくさんでてくるんですね。だから川柳って〈受信〉することなのかなと思っていて、で、もっというと、ふだん拾うはずのない電波を受信してしまうことなのかなって思うんですよね。
なかはられいこさんに、
回線はつながりました 夜空です なかはられいこ
満点に星あり宅配ピザ届く 〃
これも川柳の〈受信〉の句だと思うんですよね。で、〈受信〉というときに、〈個人的〉に受信するのではなく、〈天体〉を介して受信するのが川柳通信のポイントなのかなっておもうんです。
なかはらさんの句には、「夜空」や「満点」の「星」のもとアクセスしてしまうんだけれど、妹尾さんの句では、「きのうのお天気」や「雨」があらわれていますね。
で、妹尾さんの川柳通信でちょっとおもしろいのが、受信はできているんだけれど〈ねじれている〉ってことだと思うんですよ。
「きのうのお天気」であって、「きょうのお天気」ではない。「こちらは~です」じゃなくて、「そちらは~です」で始まる発話。せっかくつながったのに、ねじれている。
でも、逆にこう考えてみたいんです。
ねじれている場所にさえ、川柳をとおしてつながってしまうことができたのだと。
もともと川柳って通信できない場所にアクセスして、受信できないあなたからの言葉をもらうことだから、この妹尾さんの〈ねじれ〉はむしろ〈正しい〉とおもったんです。川柳通信においては。
だから、さかさまに入るとむしろつながっちゃうのかもしれない。川柳にあっては。
夕焼に入っておいであたまから 妹尾凛
三谷幸喜『ラヂオの時間』(1997)。この映画のおもしろさって、さまざまな発信者とさまざまな受信者がめいめいに〈成長〉しながら混線していくことにあるのかなって思うんです。ただピュアに発信/受信しているんではなくて、いろんなノイズをくぐりぬけながら、そのノイズによって成長しながら、〈通信〉していく。それがひとつの〈そこにしなかった時間〉になっている。ラジオってでもそうやって〈成長〉によって〈通信〉そのものの意味が変化してく楽しさや悲しみがあるんじゃないかとおもうんですよ。
そちらは雨です こちらは菫です 〃
真夜中ひとりで黙っていると
遠く遠くから電話がかかる
もしもし少しつらい夜です
きみの窓の灯りを想っています
百億光年はるか彼方の
きみをなぜだか信じられます
銀河はめぐり星は消えても
ひとつの想いは消えず流れる
谷山浩子「銀河通信」
【川柳は、受信】
谷山浩子さんの「銀河通信」って、知らない星から電話がかかってきてしまう歌なんですが、ここにある不思議って、〈知らないひとに今のわたしを瞬時に託してしまう不思議さ〉だと思うんですね。
で、なんで根拠もなくじぶんのすべてを知らないひとに明け渡すことができたかっていうとそれは〈通信〉の不思議さなんじゃないかっておもうんですよ。大切なひとだからつながることができた、じゃなくて、反対に、つながれたから大切なひとだと思った、と勘違いしてしまう構図がここにあるんじゃないか。
で、川柳にもなぜか〈通信〉してしまう句ってたくさんでてくるんですね。だから川柳って〈受信〉することなのかなと思っていて、で、もっというと、ふだん拾うはずのない電波を受信してしまうことなのかなって思うんですよね。
なかはられいこさんに、
回線はつながりました 夜空です なかはられいこ
満点に星あり宅配ピザ届く 〃
これも川柳の〈受信〉の句だと思うんですよね。で、〈受信〉というときに、〈個人的〉に受信するのではなく、〈天体〉を介して受信するのが川柳通信のポイントなのかなっておもうんです。
なかはらさんの句には、「夜空」や「満点」の「星」のもとアクセスしてしまうんだけれど、妹尾さんの句では、「きのうのお天気」や「雨」があらわれていますね。
で、妹尾さんの川柳通信でちょっとおもしろいのが、受信はできているんだけれど〈ねじれている〉ってことだと思うんですよ。
「きのうのお天気」であって、「きょうのお天気」ではない。「こちらは~です」じゃなくて、「そちらは~です」で始まる発話。せっかくつながったのに、ねじれている。
でも、逆にこう考えてみたいんです。
ねじれている場所にさえ、川柳をとおしてつながってしまうことができたのだと。
もともと川柳って通信できない場所にアクセスして、受信できないあなたからの言葉をもらうことだから、この妹尾さんの〈ねじれ〉はむしろ〈正しい〉とおもったんです。川柳通信においては。
だから、さかさまに入るとむしろつながっちゃうのかもしれない。川柳にあっては。
夕焼に入っておいであたまから 妹尾凛
三谷幸喜『ラヂオの時間』(1997)。この映画のおもしろさって、さまざまな発信者とさまざまな受信者がめいめいに〈成長〉しながら混線していくことにあるのかなって思うんです。ただピュアに発信/受信しているんではなくて、いろんなノイズをくぐりぬけながら、そのノイズによって成長しながら、〈通信〉していく。それがひとつの〈そこにしなかった時間〉になっている。ラジオってでもそうやって〈成長〉によって〈通信〉そのものの意味が変化してく楽しさや悲しみがあるんじゃないかとおもうんですよ。
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