【感想】ポポポポ~ンやぽぽやぽぽやぽぽぽぽぽぽやぽぽぽんの俳句と短歌について-ACジャパン公共広告「あいさつの魔法」からかんがえる〈ぽぽ〉-
- 2014/07/09
- 13:37
たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ 坪内稔典
たんぽぽのぽぽと絮毛のたちにけり 加藤楸邨
【帰着できないポポポポ~ンから、はじめる】
2011年の〈東北地方太平洋沖地震〉のときに、テレビといえばずっとACジャパンの「あいさつの魔法」という公共広告作品が延々とループで流れていたんですが、とくに象徴的だったのが、「ポポポポ〜ン」ということばの所在なさだったと思うんですよね。シリアスな状況下のなかで「ポポポポ~ン」をどう受容すればいいのか、しかし受容する/しないの選択をする以前にテレビメディアにふれる限り、なんどもなんどもこの「ポポポポ~ン」を身体的にすりこまれるように知覚するしかない。
で、ひとついえることは、「ポポポポ~ン」がそうした歴史的事象と隣り合わせながら何度も反復されることによって、ひとつの磁力をもった言葉になってしまったということなのではないかと思うんです。
だからといってもちろん「ぽぽ」を含んだ短詩型文学の読みがなんらかの形で変わるということはいえないと思うんですが、それでもなんどもなんどもおびただしい「ぽぽ」を眼に、耳にすることによってひとつわかったのは、「ポポポポ~ン」というのは、なにかが出現・発現するときのイメージに近いんだな、ということです。
考えてみると当たり前の話なんですが、坪内稔典さんの「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」や加藤楸邨さんの「たんぽぽのぽぽと絮毛のたちにけり」は、そうした出現・発現としてのイメージに近いとおもうんですね。
で、これらの句は「ぽぽ」がなんらかの火やわたげが出現・発現するという有機的な意味生成のイメージをともなっているとおもうんですが、もうひとつ、そうしたなにかを生成していくんだというポジティヴな「ぽぽ」がある一方で、逆のネガティヴな「ぽぽ」もあるのではないかというのが今回かんがえてみたことです。
つまり、これはわたしがなんどもなんども「ポポポポ~ン」を通過したのちにわかったことなんですが、「ポポポポ~ン」というのはなんらかの火種やわたげや「さよなライオン」などの〈あいさつ動物〉などといったモノ・コトを手品のようにたやすく音律のきもちよさもともなって出現・発現されることはできるが、一方で、それは言語としての意味生成を抑圧させるような負の祝祭的機能があるのではないかということです。それが実は、災時というシリアスな渦中にあって、「ポポポポ~ン」への違和を感じ続けた理由だったのではないかとひとつおもうのです。
で、そこから次のようなうたを読むことももしかしたら可能なのではないかというおもいがあります。ひとつの冒険的な読みになってしまうのですが、荻原裕幸さんのこの有名なうたです。
恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず 荻原裕幸
この歌はたぶん読み手の数だけ解釈がでてくるようなひらかれた歌だとはおもうんですが、この「ぽぽぽぽぽぽ」に注目してみた場合、坪内さんや加藤さんの句のように、「恋人と棲む」ことによって語り手にはおそらくたくさんのモノ・コトとしての出来事が出現・発現しているんだとは思うんですね。ただその出現・発現としての「ぽぽぽぽぽぽ」が「としか思はれず」という語り手の結句によって反転してもうひとつのネガティヴな「ぽぽぽぽぽぽ」のありようも導き出しているのではないか。つまりですね、「ぽぽぽぽぽぽ」としか思えない、ということは、さきほどネガティヴな「ぽぽ」として述べたように言語化することの祝祭的抑圧としての機能としてもあらわれているのではないかということです。ひらたくいえば、祝祭が言語を抑圧してしまうような状況です。祭りの言語的ニヒリズムとでもいったらいいんでしょうか。
恋人と棲むよろこびやかなしみには多くの出来事の出現・発現がある。でもその一方で、「ぽぽぽぽぽぽ」としか表象することができないような言語化することの抑圧がここにはあらわれているようにもおもうんですね。
もちろんこれは誤読の域だとおもうんですが、震災時の
ポポポポ~ンを通過したわたしがいま、ここでこの句をいまこの場所から読むならそういうことになるのではないかとおもうんです。
また、「ぽぽ」の短歌には天道なおさんの次のような歌もあります。
さみしさは(ぽん、ぽ、ぽぽぽん)ランダムに押すスタンプのようであり(ぽん) 天道なお
この歌では「さみしさ」が「スタンプ」の比喩をとおして、さまざまな「さみしさ」に「ランダム」に微分化されているのが特徴的だとおもうんですが、「(ぽん、ぽ、ぽぽぽん)」という、「しゅん・しんみり」に代表されるようなS音(摩擦音)の〈さみしさ〉から遠く離れた通常はありえないP音(破裂音)としての〈さみしさ〉を描いているのもおもしろい歌だとおもうんです。
つまり、S音の摩擦して通り抜けていくようなさびしい音ではなくて、P音の破裂としての通り抜けさせることもできず身体に刻印されるような「ぽぽん」としての「さみしさ」がここにはあるのではないかとおもうんです。
また、「スタンプ」という語り手が選択したことばからもわかるように「スタンプ」とは言語を介在した象徴的機能というよりも、絵や図として刻印する非言語的な想像的刻印のようにもおもうんですね。だからこそ、語り手はやはりそれ以上言語化できない「さみしさ」としての「ぽぽ」にであってしまっているのではないかとおもうのです。
あまりに深読みの感がすぎるのも否めませんし、感想を書くための資料としてはあまりに少ないとおもうんですが、どの短詩もインパクトのある「ぽぽ」の短詩型として、2011年当時のことをふりかえりながら感想を書いてみました。
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