【お知らせ】はらだ有彩「2月のヤバい女の子/第二の人生とヤバい女の子」『アパートメント』レビュー
- 2016/02/01
- 23:04
「いやいや。いやいやいや。今、私、めちゃくちゃ悲しんでるやん。夫死んでるやん、見たら分かるやん。人生最大の悲劇やん。それなのにお前は何をおっ立ててるの? 鬼なの?」 はらだ有彩
ウェブマガジン『アパートメント』の毎月始めに更新されるはらだ有彩(はりー)さんの「日本のヤバい女の子」。
連載第9回目の今月のはりーさんの文章は「第二の人生とヤバい女の子 」という「毒婦・お松」と鬼をめぐるエッセイです。
今回はりーさんの文章を読みながらあらためて〈鬼〉について考えてみました。レビューでは書いていないけれどちょっと思い出していたのが、京極夏彦の一連の作品です。京極夏彦がたえず描いているのってなにかっていうとわたしはひとの境界のありかたそのものだと思うんですね。ひとはどういうときに境界をふみはずすか、そしてひとをやめるのか。
『魍魎の匣』の最後で京極堂と関口巽がこんなやりとりをしていました。「幸せになるにはどうしたらいいんだろう」「簡単なことだ。にんげんをやめてしまえばいいのさ」。これは少なくともふたつのことをあらわしている。ひとつは、にんげんはいつでも幸せのためににんげんをやめられること。ふたつめは、それでもにんげんをやめないことによってひとは境界線を手放さず、みずからの、そして他者の境界線をといつづける存在であるということ。
しあわせになるのは、たぶん、かんたんなことなんです。でもしあわせになるということは、他者をはじく行為になるかもしれない。じゃあ、境界に敏感になるにはどうしたらいいのか。そういうことが問いかけられていたエンディングだったようにおもうんですよ。
わたしもよくきかれていました。「いま、しあわせ?」って。
なんで、だろう。
以下は、わたしが今回『アパートメント』のレビュー欄に書いたレビューです。
※ ※
いま、ぼくには君ひとりしかいない。いっしょに、いこう。ぼくは、君のところへきたんだ。ふたりとも呪われた同士だ。だから、いっしょに行こうじゃないか。彼の眼は、キラキラと輝いていた。狂人みたいだ──、と、ソーニャも思った。どこへいくんです? 彼女はおそろしそうにたずねておもわず、あとずさった。どうしてぼくが知るもんか。だが、ぼくはわかったんだ。きみはぼくに必要なひとだ。だからぼくは、ここへきたんだ。わかりません、ソーニャがささやいた。いまにわかるさ。だってきみも、同じことをしたんだろ? きみも、ふみこえた。ふみこえることが、できたじゃないか。ひとりぼっちになればきみはぼくと同じように狂ってしまうだろう。いや、いまだってもう君はだいぶ狂っている。だから、ぼくらはいっしょに行かなくちゃいけないんだ。同じ道を、行こう。
(ドストエフスキー『罪と罰』)
*
鬼、ってなんなんでしょう。
はりーさんの今回の文章を読みながら考えていたんですよ。鬼って、〈だれ〉のことなんだ、って。
今回のはりーさんの文章は〈毒婦・お松〉と〈鬼〉をめぐる文章でした。
ひとが、鬼になること。
あらためて〈鬼〉ってなんなんだろうって考えたときに、私がはりーさんの文章を読みながら思ったのは、それは〈踏み越える〉ことなんじゃないかと思ったんですよ。
鬼とは、〈踏み越える〉こと。
鬼には、はりーさんが般若の面を例として引いて書かれていたけれど、シンプルに〈つの〉がありますよね。でもこのシンプルさによって〈ひと〉と〈鬼〉は決定的に違うものになる。〈鬼〉になったひとには、つのが生える。つのが生えてしまった以上、〈鬼〉から〈ひと〉には、もう、戻れないわけです。つのが生えてしまった以上、そこを〈踏み越え〉た以上、〈ひと〉には帰ることができない。
その帰ることのできない〈踏み越え〉こそ、〈鬼〉と呼ばれるものなんじゃないか。
はりーさんは今回「毒婦・お松」の話と映画『嫌われ松子の一生』を引いていたけれど、どちらにも共通していたのは、ふたりともつのが生えていなくてももう元には戻れないくらいに〈踏み越えていった人生〉だったということです。
この『嫌われ松子の一生』では「毒婦・お松」のように「松子」がさまざまな男性遍歴のもとにいろんな種類の男性と出会い・別れながらひとりひとりの男性をある意味で踏み越えて生きていくんだけれど、でもタイトルには〈嫌われ〉とついている以上、その〈踏み越え〉のたびに、「松子」の〈内面〉に受動的に〈ささくれ〉ていくものがある。かのじょは〈嫌って〉いくんじゃないです。〈嫌われ〉ていくんですよ。
それを映画はあらかじめ知っているわけです。タイトルにつけてる以上。
決して「松子」はありとある男性を踏み越えてただそのまま世間からはじかれる〈鬼〉になっていったわけではなくて、〈あたしは嫌われ〉ているんだという〈内面〉がある。でも、もう、もとにはかえれない。踏み越え、たから。だから、〈嫌われ〉もひきうけて、ひとりのオンナとして、オニとして生きなければいけない。
この〈鬼〉と〈踏み越え〉を考えたときにはりーさんが文章のタイトルに「第二の人生」とつけたことは意味が深いのかもしれないなと思ったんですよ。つまりひとは〈鬼〉になったときに、それまでの人生とはちがったかたちで「第二の人生」を生き始めなければならない。〈踏み越え〉たら、それまでの人生のルールを捨てて、もうひとつの人生のルールをつくりださなければならない。オニとしていきていくために。
じゃあ、〈鬼〉になるってそんなにどうしようもないことなのか。救いようのないことなんでしょうか。
いや、そうじゃない。
今まではりーさんの文章を読んでこられたかたは気がつかれてるとおもうけれど、はりーさんがこれまで取り上げてこられた女性たちはみんな〈踏み越える〉女性たちだったんですよ。だから、みんな、鬼に、なっていた。
でもはりーさんがこれまでその鬼になった女性たちを描くことによっていろんなテーマを浮き彫りにしてきたように、かのじょたちは〈女性〉として生きることを、〈女性〉として生きようとして、〈女性〉として〈生きられなかった〉ことを、その結果、〈女性〉が〈鬼〉になってしまうとはどういうことかを問いかけていたと思うんですよね。ずっと。
かのじょたちは、かのじょたちが、社会のなかで、女として、生きるとはどういうことかを、ずっと問いかけていた。それが、かのじょたちの、鬼の意味だったんです。
だから、わたしは、最後に〈鬼〉をこんなふうに定義してみたいとおもうんです。
鬼とは、《あなたに生を問いかける者》のことだと。
そういえば、オニとオンナは、ちょっと音感が似ていますね。
ぐうぜん、でしょうか。
*
「だからそれもいいんじゃない? こんな言い方もなんだけどさ。成仏ばかりが人生じゃなし。かなわぬ想いをひきずって迷い続けるのもあなたらしさかもしれないし」
(今市子『百鬼夜行抄』)
ウェブマガジン『アパートメント』の毎月始めに更新されるはらだ有彩(はりー)さんの「日本のヤバい女の子」。
連載第9回目の今月のはりーさんの文章は「第二の人生とヤバい女の子 」という「毒婦・お松」と鬼をめぐるエッセイです。
今回はりーさんの文章を読みながらあらためて〈鬼〉について考えてみました。レビューでは書いていないけれどちょっと思い出していたのが、京極夏彦の一連の作品です。京極夏彦がたえず描いているのってなにかっていうとわたしはひとの境界のありかたそのものだと思うんですね。ひとはどういうときに境界をふみはずすか、そしてひとをやめるのか。
『魍魎の匣』の最後で京極堂と関口巽がこんなやりとりをしていました。「幸せになるにはどうしたらいいんだろう」「簡単なことだ。にんげんをやめてしまえばいいのさ」。これは少なくともふたつのことをあらわしている。ひとつは、にんげんはいつでも幸せのためににんげんをやめられること。ふたつめは、それでもにんげんをやめないことによってひとは境界線を手放さず、みずからの、そして他者の境界線をといつづける存在であるということ。
しあわせになるのは、たぶん、かんたんなことなんです。でもしあわせになるということは、他者をはじく行為になるかもしれない。じゃあ、境界に敏感になるにはどうしたらいいのか。そういうことが問いかけられていたエンディングだったようにおもうんですよ。
わたしもよくきかれていました。「いま、しあわせ?」って。
なんで、だろう。
以下は、わたしが今回『アパートメント』のレビュー欄に書いたレビューです。
※ ※
いま、ぼくには君ひとりしかいない。いっしょに、いこう。ぼくは、君のところへきたんだ。ふたりとも呪われた同士だ。だから、いっしょに行こうじゃないか。彼の眼は、キラキラと輝いていた。狂人みたいだ──、と、ソーニャも思った。どこへいくんです? 彼女はおそろしそうにたずねておもわず、あとずさった。どうしてぼくが知るもんか。だが、ぼくはわかったんだ。きみはぼくに必要なひとだ。だからぼくは、ここへきたんだ。わかりません、ソーニャがささやいた。いまにわかるさ。だってきみも、同じことをしたんだろ? きみも、ふみこえた。ふみこえることが、できたじゃないか。ひとりぼっちになればきみはぼくと同じように狂ってしまうだろう。いや、いまだってもう君はだいぶ狂っている。だから、ぼくらはいっしょに行かなくちゃいけないんだ。同じ道を、行こう。
(ドストエフスキー『罪と罰』)
*
鬼、ってなんなんでしょう。
はりーさんの今回の文章を読みながら考えていたんですよ。鬼って、〈だれ〉のことなんだ、って。
今回のはりーさんの文章は〈毒婦・お松〉と〈鬼〉をめぐる文章でした。
ひとが、鬼になること。
あらためて〈鬼〉ってなんなんだろうって考えたときに、私がはりーさんの文章を読みながら思ったのは、それは〈踏み越える〉ことなんじゃないかと思ったんですよ。
鬼とは、〈踏み越える〉こと。
鬼には、はりーさんが般若の面を例として引いて書かれていたけれど、シンプルに〈つの〉がありますよね。でもこのシンプルさによって〈ひと〉と〈鬼〉は決定的に違うものになる。〈鬼〉になったひとには、つのが生える。つのが生えてしまった以上、〈鬼〉から〈ひと〉には、もう、戻れないわけです。つのが生えてしまった以上、そこを〈踏み越え〉た以上、〈ひと〉には帰ることができない。
その帰ることのできない〈踏み越え〉こそ、〈鬼〉と呼ばれるものなんじゃないか。
はりーさんは今回「毒婦・お松」の話と映画『嫌われ松子の一生』を引いていたけれど、どちらにも共通していたのは、ふたりともつのが生えていなくてももう元には戻れないくらいに〈踏み越えていった人生〉だったということです。
この『嫌われ松子の一生』では「毒婦・お松」のように「松子」がさまざまな男性遍歴のもとにいろんな種類の男性と出会い・別れながらひとりひとりの男性をある意味で踏み越えて生きていくんだけれど、でもタイトルには〈嫌われ〉とついている以上、その〈踏み越え〉のたびに、「松子」の〈内面〉に受動的に〈ささくれ〉ていくものがある。かのじょは〈嫌って〉いくんじゃないです。〈嫌われ〉ていくんですよ。
それを映画はあらかじめ知っているわけです。タイトルにつけてる以上。
決して「松子」はありとある男性を踏み越えてただそのまま世間からはじかれる〈鬼〉になっていったわけではなくて、〈あたしは嫌われ〉ているんだという〈内面〉がある。でも、もう、もとにはかえれない。踏み越え、たから。だから、〈嫌われ〉もひきうけて、ひとりのオンナとして、オニとして生きなければいけない。
この〈鬼〉と〈踏み越え〉を考えたときにはりーさんが文章のタイトルに「第二の人生」とつけたことは意味が深いのかもしれないなと思ったんですよ。つまりひとは〈鬼〉になったときに、それまでの人生とはちがったかたちで「第二の人生」を生き始めなければならない。〈踏み越え〉たら、それまでの人生のルールを捨てて、もうひとつの人生のルールをつくりださなければならない。オニとしていきていくために。
じゃあ、〈鬼〉になるってそんなにどうしようもないことなのか。救いようのないことなんでしょうか。
いや、そうじゃない。
今まではりーさんの文章を読んでこられたかたは気がつかれてるとおもうけれど、はりーさんがこれまで取り上げてこられた女性たちはみんな〈踏み越える〉女性たちだったんですよ。だから、みんな、鬼に、なっていた。
でもはりーさんがこれまでその鬼になった女性たちを描くことによっていろんなテーマを浮き彫りにしてきたように、かのじょたちは〈女性〉として生きることを、〈女性〉として生きようとして、〈女性〉として〈生きられなかった〉ことを、その結果、〈女性〉が〈鬼〉になってしまうとはどういうことかを問いかけていたと思うんですよね。ずっと。
かのじょたちは、かのじょたちが、社会のなかで、女として、生きるとはどういうことかを、ずっと問いかけていた。それが、かのじょたちの、鬼の意味だったんです。
だから、わたしは、最後に〈鬼〉をこんなふうに定義してみたいとおもうんです。
鬼とは、《あなたに生を問いかける者》のことだと。
そういえば、オニとオンナは、ちょっと音感が似ていますね。
ぐうぜん、でしょうか。
*
「だからそれもいいんじゃない? こんな言い方もなんだけどさ。成仏ばかりが人生じゃなし。かなわぬ想いをひきずって迷い続けるのもあなたらしさかもしれないし」
(今市子『百鬼夜行抄』)
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