【ふしぎな川柳 第七十三夜】すべてを捨てて僕は生きてる-瀧村小奈生-
- 2016/02/01
- 23:39
無人駅通過バンテリン浸透 瀧村小奈生
すばらしい日々だ 力あふれ すべてを捨てて僕は生きてる
君は僕を忘れるから その頃にはすぐに君に会いに行ける
奥田民生(ユニコーン)「すばらしい日々」
【にもかかわらず人生は続く】
「無人駅」を「通過」する感覚ってありますよね。
それはふつうの駅にとまる感覚ではないですよね。通過するんだから、自分とはぜんぜん関係ない駅、電車に乗っている誰ひとりとも関係ないの駅です。たぶん。
でも、「無人駅」を電車でガーッと通過するときって、なにかの〈感覚〉がうずきますよね。
それを〈あえて〉あらわすなら、「バンテリン浸透」なんだなって小奈生さんの句を読んで思ったんです。
それは表面的ななにかではない。バンテリンという膏薬のように徐々に浸透してくる〈なにか〉です。湿布を貼ったときを思い出してほしいんですが、仕組みはわからないけれど、なにかがすごく効果的に働いているのはわかりますよね。その意味でちょっと湿布薬って独特の感覚がある。でもそれは痛みではない。痛みに作用するための刺激です。しかし刺激でもない。かゆみでもない。〈なにか〉が皮膚の境界で起こっている。
それが「無人駅」を通過するときのいいあらわしがたい〈境界の揺れ〉だとおもうんですよ。
で、奥田民生さんが書いた歌に「すばらしい日々」という歌があって、とても〈すばらしい〉歌でほんとうによく聴いてたんですが(これは奥田さんの歌うバージョンもいいんだけれど、矢野顕子さんが歌うバージョンもとてもいいです)、これとってもふしぎな歌詞で、〈きみが忘れるからぼくはきみに会いに行ける〉っていう歌なんですよ。覚えていてくれるから会いに行ける、んじゃなくて、きみがぼくのことを捨て去ってくれるから会いに行ける、って内容なんですね。
で、なんでだろうって思ってたんだけれど、これってこの小奈生さんの「無人駅通過」の感覚にも近いのかなっておもったんです。「無人駅」ていうのは、人がいない駅なので、ひとがいない点において駅としては〈失効〉してるんです。機能不全におちいっている。だから、通過もする。でも、駅が失効してはじめて、駅と築くことのできるひとの関係がある。はじめてその「無人駅」から与えられる「バンテリン浸透」のような感覚がある。でもそれって失わないとわかんないんです。
きみがぼくを覚えていてくれるような関係、じゃなくて、きみがぼくを忘れるような関係になって、はじめてまたあらわれてくるきみとぼくがいる。そうしてはじめて出会える関係性ってあるのかなって思うんです。ながい、ながい、時間を要する関係です。忘れられたら、また会えるかどうかもわからない。通過した無人駅とまた関係がつなげるかどうかわからないみたいに。でも、そういうやりかたでしか、会えない関係性ってあるのかなともおもうんです。
失って、通過して、はじめて築ける関係性が、ある。へんな話だけれど、でも、人生にはへんですばらしいしゅんかんがあって、そのことを〈すばらしい日々〉とも言うんじゃないかなって、おもう。
たてがみを失ってからまた逢おう 小池正博
なつかしい歌も笑い顔も すべてを捨てて僕は生きてる
朝も夜も歌いながら 時々はぼんやりと考える
君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける
奥田民生(ユニコーン)「すばらしい日々」
キャプラ『素晴らしき哉、人生!』(1946)。アンソニー・ホプキンスがヒッチコックを演じた映画『ヒッチコック』を観ながら、ずっとジェームズ・ステュアートについて考えていたんです。ヒッチコック映画といえば、ケーリー・グラントかジェームズ・ステュアートですよね。ちょっとふたりはキャラがかぶってるというか、顔が似ているんだけれど(どちらも草刈正雄的な〈なにか〉)、ケーリー・グラントが裏の内面がもっているような顔をしているのに対して、ジェームズ・ステュアートって素の内面をもろに出しているような顔をしているんですね。それが、ちょっと、ふたりは、ちがう。で、それってたぶんジェームズ・ステュアートがいつも泣いているような表情をしているからじゃないかって思うんですよ。セントバーナードみたいにたれ眼なんですね。で、泣いてるようにみえる。ふだん泣いてるようにみえるひとが、ひとの無償の善に救われる映画を演じた。そうしてラストに人生はすばらしいんだと思えるしゅんかんに怒濤のようにたちあった。そういう映画です。
すばらしい日々だ 力あふれ すべてを捨てて僕は生きてる
君は僕を忘れるから その頃にはすぐに君に会いに行ける
奥田民生(ユニコーン)「すばらしい日々」
【にもかかわらず人生は続く】
「無人駅」を「通過」する感覚ってありますよね。
それはふつうの駅にとまる感覚ではないですよね。通過するんだから、自分とはぜんぜん関係ない駅、電車に乗っている誰ひとりとも関係ないの駅です。たぶん。
でも、「無人駅」を電車でガーッと通過するときって、なにかの〈感覚〉がうずきますよね。
それを〈あえて〉あらわすなら、「バンテリン浸透」なんだなって小奈生さんの句を読んで思ったんです。
それは表面的ななにかではない。バンテリンという膏薬のように徐々に浸透してくる〈なにか〉です。湿布を貼ったときを思い出してほしいんですが、仕組みはわからないけれど、なにかがすごく効果的に働いているのはわかりますよね。その意味でちょっと湿布薬って独特の感覚がある。でもそれは痛みではない。痛みに作用するための刺激です。しかし刺激でもない。かゆみでもない。〈なにか〉が皮膚の境界で起こっている。
それが「無人駅」を通過するときのいいあらわしがたい〈境界の揺れ〉だとおもうんですよ。
で、奥田民生さんが書いた歌に「すばらしい日々」という歌があって、とても〈すばらしい〉歌でほんとうによく聴いてたんですが(これは奥田さんの歌うバージョンもいいんだけれど、矢野顕子さんが歌うバージョンもとてもいいです)、これとってもふしぎな歌詞で、〈きみが忘れるからぼくはきみに会いに行ける〉っていう歌なんですよ。覚えていてくれるから会いに行ける、んじゃなくて、きみがぼくのことを捨て去ってくれるから会いに行ける、って内容なんですね。
で、なんでだろうって思ってたんだけれど、これってこの小奈生さんの「無人駅通過」の感覚にも近いのかなっておもったんです。「無人駅」ていうのは、人がいない駅なので、ひとがいない点において駅としては〈失効〉してるんです。機能不全におちいっている。だから、通過もする。でも、駅が失効してはじめて、駅と築くことのできるひとの関係がある。はじめてその「無人駅」から与えられる「バンテリン浸透」のような感覚がある。でもそれって失わないとわかんないんです。
きみがぼくを覚えていてくれるような関係、じゃなくて、きみがぼくを忘れるような関係になって、はじめてまたあらわれてくるきみとぼくがいる。そうしてはじめて出会える関係性ってあるのかなって思うんです。ながい、ながい、時間を要する関係です。忘れられたら、また会えるかどうかもわからない。通過した無人駅とまた関係がつなげるかどうかわからないみたいに。でも、そういうやりかたでしか、会えない関係性ってあるのかなともおもうんです。
失って、通過して、はじめて築ける関係性が、ある。へんな話だけれど、でも、人生にはへんですばらしいしゅんかんがあって、そのことを〈すばらしい日々〉とも言うんじゃないかなって、おもう。
たてがみを失ってからまた逢おう 小池正博
なつかしい歌も笑い顔も すべてを捨てて僕は生きてる
朝も夜も歌いながら 時々はぼんやりと考える
君は僕を忘れるから そうすればもうすぐに君に会いに行ける
奥田民生(ユニコーン)「すばらしい日々」
キャプラ『素晴らしき哉、人生!』(1946)。アンソニー・ホプキンスがヒッチコックを演じた映画『ヒッチコック』を観ながら、ずっとジェームズ・ステュアートについて考えていたんです。ヒッチコック映画といえば、ケーリー・グラントかジェームズ・ステュアートですよね。ちょっとふたりはキャラがかぶってるというか、顔が似ているんだけれど(どちらも草刈正雄的な〈なにか〉)、ケーリー・グラントが裏の内面がもっているような顔をしているのに対して、ジェームズ・ステュアートって素の内面をもろに出しているような顔をしているんですね。それが、ちょっと、ふたりは、ちがう。で、それってたぶんジェームズ・ステュアートがいつも泣いているような表情をしているからじゃないかって思うんですよ。セントバーナードみたいにたれ眼なんですね。で、泣いてるようにみえる。ふだん泣いてるようにみえるひとが、ひとの無償の善に救われる映画を演じた。そうしてラストに人生はすばらしいんだと思えるしゅんかんに怒濤のようにたちあった。そういう映画です。
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:ふしぎな川柳-川柳百物語拾遺-