【ふしぎな川柳 第七十四夜】数はこわい-中川喜代子-
- 2016/02/02
- 12:45
こわごわと百から七を引いていく 中川喜代子
胸襟は十時と三時に開きます 〃
熱湯をかけて三分歌うべし 〃
肋から一枚取り出す請求書 〃
「でも私、あなたのこと好きだったのよ。昔の話だけど」
「じゃそれは昔の話なんだ」と僕は言った。
二分五十三秒。
「それほど昔の話じゃないわ。私たち歴史の話をしてるわけじゃないのよ」
「歴史の話だよ」と僕は言った。
《死角》、と僕は思った。
村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」
自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬またたいていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
夏目漱石「夢十夜」
【さあ、数】
『川柳ねじまき2』の中川さんの連作「魏志倭人伝」から数をめぐる句を抜き出してみました。
ときどき思うことなんですが、短詩って《数への強迫》なのではないかと思うことがあるんですね。
ずっと定型とつきあいつづけるわけですよね。で、もちろん、いろんな定型の定義のしかたがあるけれど、定型ってやっぱり《数》だと思うんですね。まずは、数。
そうすると、短歌も俳句も川柳もずっと《数の強迫》とつきあいつづけることになる。
短詩においていちばんこわいのは、意味なんかじゃなくて、《数》のはずなんですよ。数がすべてを決定するせかいなので。
で、数への強迫って文学にもあらわれてきますよね。村上春樹の小説には四つの乳房をもった女の子や女の子と寝た数を強迫的に数える男の子が出てくる。これは漱石も変わりません。『《三》四郎』とか「夢《十》夜」とか「《百》年はもう来ていたんだな」とか。
で、なんで数がこわいんだろうっていうと、中川さんの句をみてみるとわかるんですが、自分がコントロールできない独自のルールをもっていることが数にはあるんだってことがわかりますよね。どうして、こわごわと百から七を引いているのかっていうと、自分にもわからないこと、予測できないことが起こりそうな気がしている。それって自分が数字をコントロールできないからですよね。数字ってじぶんがどうこうすることもできないんですよ。定型もそうなんだけれど。きょうからなんとか108音にするために自分は定型に挑んでみたいと思います、って宣言しても無謀なわけですよね。たぶん、すごく親しいひとに一緒に定型に革命を起こそうってっても迷惑な顔をされそうな気がする。
それって数もそうで、3を5みたいな感じになんとかしてみたい、って言ってもどうにもならないわけです。つまり、数ってちょっと超越的なんですね。国家みたいに。
この数の反対をいくのが水なんじゃないかとおもうんです。数がかたちを変えることができない一方で、水はさまざまなにかたちを変える。だから定型のなかで雨とか海って愛されるんじゃないかとおもうんですよ。そうしてだからこそ、この中川さんの連作には、《数》と《水》の対立があるんじゃないかとおもうんですよ。
だからこの中川さんの連作には数の句がいっぱいあるとともに水の句もいっぱいある。
数は水を呼び、水は数を連れてくる。
さあ、水。
黒酢入れなだめなだめたはてのはて 中川喜代子
風呂の栓抜くとながれる蛍の光 〃
地図の川形状記憶のまま流れ 〃
アイロンがゆっくりついた船着場 〃
トラン・アン・ユン『ノルウェイの森』(2010)。村上春樹が映画化されるとどうなるかっていうと、《数》が失われると思うんですよね。《数える行為》が失われてしまう。で、このトラン・アン・ユン監督の映画がすごく叙情的に感じられるのって数がうしなわれたからなんじゃないかて思うんです。水もたとえばプールの水とかでとても印象的なかたちで出てくる。村上春樹の小説では、自分がどうすることもできないなにかとして数が象徴的に出てくるきがするんだけれど、この映画ではそういう《どうすることもできなさ》みたいなのはなくなって、むしろ《流れる》とか《たゆたう》に力点が置かれているんじゃないかとおもうんです。小説ってそもそも本で、「あと何ページだ」って思って本を読むわけだから、だから本を読むことって実は《数》とつきあうことなんですよね。
胸襟は十時と三時に開きます 〃
熱湯をかけて三分歌うべし 〃
肋から一枚取り出す請求書 〃
「でも私、あなたのこと好きだったのよ。昔の話だけど」
「じゃそれは昔の話なんだ」と僕は言った。
二分五十三秒。
「それほど昔の話じゃないわ。私たち歴史の話をしてるわけじゃないのよ」
「歴史の話だよ」と僕は言った。
《死角》、と僕は思った。
村上春樹「ねじまき鳥と火曜日の女たち」
自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬またたいていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
夏目漱石「夢十夜」
【さあ、数】
『川柳ねじまき2』の中川さんの連作「魏志倭人伝」から数をめぐる句を抜き出してみました。
ときどき思うことなんですが、短詩って《数への強迫》なのではないかと思うことがあるんですね。
ずっと定型とつきあいつづけるわけですよね。で、もちろん、いろんな定型の定義のしかたがあるけれど、定型ってやっぱり《数》だと思うんですね。まずは、数。
そうすると、短歌も俳句も川柳もずっと《数の強迫》とつきあいつづけることになる。
短詩においていちばんこわいのは、意味なんかじゃなくて、《数》のはずなんですよ。数がすべてを決定するせかいなので。
で、数への強迫って文学にもあらわれてきますよね。村上春樹の小説には四つの乳房をもった女の子や女の子と寝た数を強迫的に数える男の子が出てくる。これは漱石も変わりません。『《三》四郎』とか「夢《十》夜」とか「《百》年はもう来ていたんだな」とか。
で、なんで数がこわいんだろうっていうと、中川さんの句をみてみるとわかるんですが、自分がコントロールできない独自のルールをもっていることが数にはあるんだってことがわかりますよね。どうして、こわごわと百から七を引いているのかっていうと、自分にもわからないこと、予測できないことが起こりそうな気がしている。それって自分が数字をコントロールできないからですよね。数字ってじぶんがどうこうすることもできないんですよ。定型もそうなんだけれど。きょうからなんとか108音にするために自分は定型に挑んでみたいと思います、って宣言しても無謀なわけですよね。たぶん、すごく親しいひとに一緒に定型に革命を起こそうってっても迷惑な顔をされそうな気がする。
それって数もそうで、3を5みたいな感じになんとかしてみたい、って言ってもどうにもならないわけです。つまり、数ってちょっと超越的なんですね。国家みたいに。
この数の反対をいくのが水なんじゃないかとおもうんです。数がかたちを変えることができない一方で、水はさまざまなにかたちを変える。だから定型のなかで雨とか海って愛されるんじゃないかとおもうんですよ。そうしてだからこそ、この中川さんの連作には、《数》と《水》の対立があるんじゃないかとおもうんですよ。
だからこの中川さんの連作には数の句がいっぱいあるとともに水の句もいっぱいある。
数は水を呼び、水は数を連れてくる。
さあ、水。
黒酢入れなだめなだめたはてのはて 中川喜代子
風呂の栓抜くとながれる蛍の光 〃
地図の川形状記憶のまま流れ 〃
アイロンがゆっくりついた船着場 〃
トラン・アン・ユン『ノルウェイの森』(2010)。村上春樹が映画化されるとどうなるかっていうと、《数》が失われると思うんですよね。《数える行為》が失われてしまう。で、このトラン・アン・ユン監督の映画がすごく叙情的に感じられるのって数がうしなわれたからなんじゃないかて思うんです。水もたとえばプールの水とかでとても印象的なかたちで出てくる。村上春樹の小説では、自分がどうすることもできないなにかとして数が象徴的に出てくるきがするんだけれど、この映画ではそういう《どうすることもできなさ》みたいなのはなくなって、むしろ《流れる》とか《たゆたう》に力点が置かれているんじゃないかとおもうんです。小説ってそもそも本で、「あと何ページだ」って思って本を読むわけだから、だから本を読むことって実は《数》とつきあうことなんですよね。
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