【ふしぎな川柳 第七十五夜】よくねむるひと-ながたまみ-
- 2016/02/02
- 23:14
よく眠る人から鍵を渡される ながたまみ
【穏やかで過激な依託】
このながたさんの句とても好きなんですが、どこかファンタジックで、かつ、よく考えてみると現実的なんですよね。
現実にこういうことってたぶんありますよね、自分は待ってるあいだによく眠っちゃうひとだから自分の部屋の鍵を渡しておくっていう。
でもこの句って現実的でない、むしろファンタジックな側面があるようにおもう。
ディズニーの『不思議の国のアリス』で、最後にアリスが不思議の国を脱け出そうとして扉を無理やり開けようとするんだけれど鍵が掛かっていて開かない。で、ドアノブ男から「おまえはもう脱け出しているじゃないか」と言われて鍵穴を覗いてみると、木陰でじぶんがすやすや眠っているのがみえるんです。
つまりこのとき、アリスが〈眠っているじぶんじしん〉に気がつくことが不思議の国を脱け出す鍵になってるわけです。
これもひとつの「よく眠る人から鍵を渡される」です。
でね、現実とファンタジックの両面からみてみると、〈眠り〉っていう行為はすべての鍵をあける行為(夢をみること)であると同時に、すべての鍵を掛ける行為(誰もわたしとコミュニケーションできない)なんですよ。同時に、そのどっちもをするのが〈眠る〉って行為なんです。
その〈すべての鍵〉を語り手は渡されたんじゃないかなって思うんですね。そのひとのすべてです。
で、もっといえば、これはそのひとの運命のいっさいがっさいを、そのひとがこれから覚醒するかしないかという運命の鍵も、この〈わたし〉はもらってしまったんだっていうことなんじゃないかと思うんです。
だからそれは「よく眠る人」の穏やかで過激な〈依託〉だったんじゃないかと思うんですよ。
じゃあ、すべてを〈わたし〉に託してすでに眠ってしまったそのひとのかたわらで、鍵を握りしめた〈わたし〉は、どうすればいいのか。
嬉しくて、くるくるまわってみたりするのも、ありです。
嬉しくて回ると溶けてゆくカラダ ながたまみ
シュヴァンクマイエル『アリス』(1988)。この人形劇と実写が融合した倒錯的なアリス(目玉焼きに舌をアリスが突っ込んでいるところからすでになにかが倒錯してしまっているのがわかります)のおもしろさって、アリスをともかくやたらにファンタジックに〈させない〉ってところにあると思うんです。シュヴァンクマイエルはモノを使ったアニメーションをつくるひとなので、造型の範囲内での可能性の無限なんですよ。可能性は無限なんだけれど、それはすべて形而下のモノとしての可能性なんです。だからシュヴァンクマイエルの行ったアリス的試みはティム・バートンみたいにCGでなんでもありの世界をつくっちゃうんじゃなくて(それはそれで愉しいんだけれど)、そうではなく、あえてアリスを唯物論的に、モノだけで語ってみることにあったんじゃないかと思うんです。鍵のてざわりの復権というか。
以上で、『川柳ねじまき』2の全メンバーの方の感想を書かせていただいたのですが、この『川柳ねじまき』2に掲載されているねじまき句会のみんなでおこなった連句のレポートがとてもおもしろかったんですよ。私、今まで、連句ってよくわからなかったんです。で、連句を経験したことがあるひともしたことがないひともみんながいっしょになって、ねじまきのみんなで連句をしているそのレポートが掲載されているんですが、連句をすでに経験されている二村鉄子さんのレポートと、連句を初めて経験されたながたまみさんのふたつの異なる視点からのレポートがあって、その両方からの立体的な構成がとってもわかりやすくて、おもしろかったんです(わたしもながたまみさんのレポートを読みながら初めて経験する連句の苦労と困惑と愉しさを追体験してみたんです)。連句って、みんなでわいわいやるたのしさと、そのみんなにぎゅうぎゅうと縛られていくたのしさの、ふたつのたのしさの板挟みがある。ゆきすぎた〈わいわい〉は禁じられるし、縛られすぎて身動きがとれなくなってしまってもいけないんです。連句っておもしろいなあっておもいました。ドゥルーズがたしか、サディズムは「法」が大事で、マゾヒズムは「契約」が大事だって言っていましたが、そんなこともちょっと思い出しました。「法」や「契約」のもとでする〈わいわい〉。
【穏やかで過激な依託】
このながたさんの句とても好きなんですが、どこかファンタジックで、かつ、よく考えてみると現実的なんですよね。
現実にこういうことってたぶんありますよね、自分は待ってるあいだによく眠っちゃうひとだから自分の部屋の鍵を渡しておくっていう。
でもこの句って現実的でない、むしろファンタジックな側面があるようにおもう。
ディズニーの『不思議の国のアリス』で、最後にアリスが不思議の国を脱け出そうとして扉を無理やり開けようとするんだけれど鍵が掛かっていて開かない。で、ドアノブ男から「おまえはもう脱け出しているじゃないか」と言われて鍵穴を覗いてみると、木陰でじぶんがすやすや眠っているのがみえるんです。
つまりこのとき、アリスが〈眠っているじぶんじしん〉に気がつくことが不思議の国を脱け出す鍵になってるわけです。
これもひとつの「よく眠る人から鍵を渡される」です。
でね、現実とファンタジックの両面からみてみると、〈眠り〉っていう行為はすべての鍵をあける行為(夢をみること)であると同時に、すべての鍵を掛ける行為(誰もわたしとコミュニケーションできない)なんですよ。同時に、そのどっちもをするのが〈眠る〉って行為なんです。
その〈すべての鍵〉を語り手は渡されたんじゃないかなって思うんですね。そのひとのすべてです。
で、もっといえば、これはそのひとの運命のいっさいがっさいを、そのひとがこれから覚醒するかしないかという運命の鍵も、この〈わたし〉はもらってしまったんだっていうことなんじゃないかと思うんです。
だからそれは「よく眠る人」の穏やかで過激な〈依託〉だったんじゃないかと思うんですよ。
じゃあ、すべてを〈わたし〉に託してすでに眠ってしまったそのひとのかたわらで、鍵を握りしめた〈わたし〉は、どうすればいいのか。
嬉しくて、くるくるまわってみたりするのも、ありです。
嬉しくて回ると溶けてゆくカラダ ながたまみ
シュヴァンクマイエル『アリス』(1988)。この人形劇と実写が融合した倒錯的なアリス(目玉焼きに舌をアリスが突っ込んでいるところからすでになにかが倒錯してしまっているのがわかります)のおもしろさって、アリスをともかくやたらにファンタジックに〈させない〉ってところにあると思うんです。シュヴァンクマイエルはモノを使ったアニメーションをつくるひとなので、造型の範囲内での可能性の無限なんですよ。可能性は無限なんだけれど、それはすべて形而下のモノとしての可能性なんです。だからシュヴァンクマイエルの行ったアリス的試みはティム・バートンみたいにCGでなんでもありの世界をつくっちゃうんじゃなくて(それはそれで愉しいんだけれど)、そうではなく、あえてアリスを唯物論的に、モノだけで語ってみることにあったんじゃないかと思うんです。鍵のてざわりの復権というか。
以上で、『川柳ねじまき』2の全メンバーの方の感想を書かせていただいたのですが、この『川柳ねじまき』2に掲載されているねじまき句会のみんなでおこなった連句のレポートがとてもおもしろかったんですよ。私、今まで、連句ってよくわからなかったんです。で、連句を経験したことがあるひともしたことがないひともみんながいっしょになって、ねじまきのみんなで連句をしているそのレポートが掲載されているんですが、連句をすでに経験されている二村鉄子さんのレポートと、連句を初めて経験されたながたまみさんのふたつの異なる視点からのレポートがあって、その両方からの立体的な構成がとってもわかりやすくて、おもしろかったんです(わたしもながたまみさんのレポートを読みながら初めて経験する連句の苦労と困惑と愉しさを追体験してみたんです)。連句って、みんなでわいわいやるたのしさと、そのみんなにぎゅうぎゅうと縛られていくたのしさの、ふたつのたのしさの板挟みがある。ゆきすぎた〈わいわい〉は禁じられるし、縛られすぎて身動きがとれなくなってしまってもいけないんです。連句っておもしろいなあっておもいました。ドゥルーズがたしか、サディズムは「法」が大事で、マゾヒズムは「契約」が大事だって言っていましたが、そんなこともちょっと思い出しました。「法」や「契約」のもとでする〈わいわい〉。
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