【ふしぎな川柳 第七十六夜】くろいつぶつぶ-小池正博-
- 2016/02/03
- 13:03
都合よく転校生は蟻まみれ 小池正博
浩さん! 浩さんは去年の十一月旅順で戦死した。二十六日は風の強く吹く日であったそうだ。散兵壕から飛び出した兵士の数は幾百か知らぬ。蟻の穴を蹴返えしたごとくに散り散りに乱れて前面の傾斜を攀じ登る。こちらから眺めるとただ一筋の黒い河が山を裂いて流れるように見える。黒い者が簇然と蠢めいている。この蠢めいているもののうちに浩さんがいる。
夏目漱石「趣味の遺伝」
【黒いつぶつぶの文芸】
小池さんの新刊句集『転校生は蟻まみれ』からの一句です。
さいきん興味があることに川柳のなかに出てくる〈黒いつぶつぶ〉というのがあってですね、たとえば、
黒いタネ吐き出す夜間通用口 八上桐子
これも〈黒いつぶつぶ〉だと思うし、
鳳仙花ぱん 夢のあなたもぱぱぱぱん なかはられいこ
ホウセンカって袋のような果実を割るとなかから〈黒い種〉がいっぱい出てきますよね。これも〈黒いつぶつぶ〉だと思うんです。
で、〈黒いつぶつぶ〉がこれら川柳にはあちこちにあるんだけれど、おもしろいのはその〈つぶつぶ〉に対して修辞の仕方がぜんぜん異なっていることです。
小池さんの句では「都合よく」ととつぜん語り手の偏差をあからさまに出します。転校生が蟻まみれになっているときに、語り手の〈わたし〉は〈都合よし〉と思っている。〈黒いつぶつぶ〉から引き出された〈わたし〉の偏差です。〈黒いつぶつぶ〉が偏差を引き起こしていることを発見している句です。
八上さんの句では語り手が黒いつぶつぶを「吐き出す」という語り手のアクションがあるもののそれが「夜間通用口」という大きな名詞におとしこまれることによって場所がクローズアップされ、「吐き出す」というアクションを引き起こした〈場所〉の偏差が問題になっていきます。偏差のある場所を発見した。
なかはらさんの句では、ホウセンカが割れ黒いつぶつぶが飛び出すエネルギーそのものを「ぱん/ぱぱぱぱん」と音のレトリックに変えることによってホウセンカの〈破裂〉をあなたの〈破裂〉に変換するという、〈レトリックの暴力〉が行使されています。レトリック上で使うことのできるピストルで語り手は「夢のあなた」を撃っている。レトリックの偏差をエネルギーに変えているといってもいいかもしれない。レトリックの偏差の発見。
で、〈黒いつぶつぶ〉、たとえば、蟻がたまってうごめいているのや、皿にたまった西瓜の種をみても、〈黒いつぶつぶ〉ってなにかの〈偏差〉をひとに引き起こすものなんじゃないかと思うんですよ。うわあなんだこれは、って感じです。たとえば黒いつぶつぶってわたし、蟻とか西瓜の種とか日常的な例をあげたけれど、漱石の「趣味の遺伝」で描かれたように、それって〈戦場の兵士〉だって俯瞰すれば〈黒いつぶつぶ〉なんですよ。〈黒いつぶつぶ〉にはミクロからもマクロからもいろんな〈黒いつぶつぶ〉があって、めいめいに〈偏差〉を引き起こしていく。そしてその〈偏差〉がレトリックとして川柳では発現している。
それが〈黒いつぶつぶ〉なんじゃないかと思うんですよ。
この小池さんの句集の「あとがき」で、
「川柳」とは何か、今もって分からないが、「私」を越えた大きな「川柳」の流れが少し実感できるようになった。けれども、それは「川柳形式の恩寵」ではない。「川柳」は何も支えてはくれないからだ。
って小池さんが書かれていたんですね。これは小池さんが川柳っていう表現形式は、消える文芸、蕩尽される文芸だって小池さんの評論集『蕩尽の文芸』で言われていたこととどこか通底しているのかなとも思うんですが、そのときの小池さんが力点を置かれていたのは、〈消える〉ことではなく、消える文芸としての〈無名性〉をどう考えてゆくかということだったと思うんです。〈無名性〉のなかで〈だけ〉つくりうる表現形式があるんじゃないかと。
で、その〈無名性〉って、何も支えてはくれない「川柳」のなかで、それでもどのような〈川柳的な偏差〉があらわれるのかっていうことに私は通じているように思うんですね。川柳を通して・私を超えてあらわれてしまう〈表現の偏差〉というか。
その〈偏差〉って、「蟻まみれ」になっている〈わたし〉を、いや、「蟻まみれ」になっている「転校生」を「都合よく」眺めている無名の〈わたし〉をどう考えるのかということにもつながっているように、おもう。
曼荼羅を虫が渡ってゆく速度 小池正博
宮崎駿『風立ちぬ』(2013)。この映画のラストで、戦闘機というか飛行機がつぶつぶみたいに小さくなってひしめいているシーンがあるんですが、私はこの映画のなかの飛行機の死ってそれなんじゃないかと思うんですね。飛行機の墓場で墜落し壊れている飛行機ではなくて。で、それって絵として飛行機が死ぬってことです。宮崎駿はこれまでたくさんの飛行機をそのつど作品において描いてきたけれど、そういった今までの描写の経験値れが封印されるくらい飛行機がつぶつぶになってしまう。それがこの映画のなかの、そしてこれまでの宮崎駿アニメにおける飛行機の死になっているんじゃないかと思うんです。最後、二郎は〈歩いて〉ますよね。地獄で。飛行機は絵として死んでしまったから、生きていくには歩くしかない。風にのって飛ぶのではなく、風に吹かれながらも歩くこと。それが『風立ちぬ』の最後にたどりついた場所なんじゃないかと思ったんです。
浩さん! 浩さんは去年の十一月旅順で戦死した。二十六日は風の強く吹く日であったそうだ。散兵壕から飛び出した兵士の数は幾百か知らぬ。蟻の穴を蹴返えしたごとくに散り散りに乱れて前面の傾斜を攀じ登る。こちらから眺めるとただ一筋の黒い河が山を裂いて流れるように見える。黒い者が簇然と蠢めいている。この蠢めいているもののうちに浩さんがいる。
夏目漱石「趣味の遺伝」
【黒いつぶつぶの文芸】
小池さんの新刊句集『転校生は蟻まみれ』からの一句です。
さいきん興味があることに川柳のなかに出てくる〈黒いつぶつぶ〉というのがあってですね、たとえば、
黒いタネ吐き出す夜間通用口 八上桐子
これも〈黒いつぶつぶ〉だと思うし、
鳳仙花ぱん 夢のあなたもぱぱぱぱん なかはられいこ
ホウセンカって袋のような果実を割るとなかから〈黒い種〉がいっぱい出てきますよね。これも〈黒いつぶつぶ〉だと思うんです。
で、〈黒いつぶつぶ〉がこれら川柳にはあちこちにあるんだけれど、おもしろいのはその〈つぶつぶ〉に対して修辞の仕方がぜんぜん異なっていることです。
小池さんの句では「都合よく」ととつぜん語り手の偏差をあからさまに出します。転校生が蟻まみれになっているときに、語り手の〈わたし〉は〈都合よし〉と思っている。〈黒いつぶつぶ〉から引き出された〈わたし〉の偏差です。〈黒いつぶつぶ〉が偏差を引き起こしていることを発見している句です。
八上さんの句では語り手が黒いつぶつぶを「吐き出す」という語り手のアクションがあるもののそれが「夜間通用口」という大きな名詞におとしこまれることによって場所がクローズアップされ、「吐き出す」というアクションを引き起こした〈場所〉の偏差が問題になっていきます。偏差のある場所を発見した。
なかはらさんの句では、ホウセンカが割れ黒いつぶつぶが飛び出すエネルギーそのものを「ぱん/ぱぱぱぱん」と音のレトリックに変えることによってホウセンカの〈破裂〉をあなたの〈破裂〉に変換するという、〈レトリックの暴力〉が行使されています。レトリック上で使うことのできるピストルで語り手は「夢のあなた」を撃っている。レトリックの偏差をエネルギーに変えているといってもいいかもしれない。レトリックの偏差の発見。
で、〈黒いつぶつぶ〉、たとえば、蟻がたまってうごめいているのや、皿にたまった西瓜の種をみても、〈黒いつぶつぶ〉ってなにかの〈偏差〉をひとに引き起こすものなんじゃないかと思うんですよ。うわあなんだこれは、って感じです。たとえば黒いつぶつぶってわたし、蟻とか西瓜の種とか日常的な例をあげたけれど、漱石の「趣味の遺伝」で描かれたように、それって〈戦場の兵士〉だって俯瞰すれば〈黒いつぶつぶ〉なんですよ。〈黒いつぶつぶ〉にはミクロからもマクロからもいろんな〈黒いつぶつぶ〉があって、めいめいに〈偏差〉を引き起こしていく。そしてその〈偏差〉がレトリックとして川柳では発現している。
それが〈黒いつぶつぶ〉なんじゃないかと思うんですよ。
この小池さんの句集の「あとがき」で、
「川柳」とは何か、今もって分からないが、「私」を越えた大きな「川柳」の流れが少し実感できるようになった。けれども、それは「川柳形式の恩寵」ではない。「川柳」は何も支えてはくれないからだ。
って小池さんが書かれていたんですね。これは小池さんが川柳っていう表現形式は、消える文芸、蕩尽される文芸だって小池さんの評論集『蕩尽の文芸』で言われていたこととどこか通底しているのかなとも思うんですが、そのときの小池さんが力点を置かれていたのは、〈消える〉ことではなく、消える文芸としての〈無名性〉をどう考えてゆくかということだったと思うんです。〈無名性〉のなかで〈だけ〉つくりうる表現形式があるんじゃないかと。
で、その〈無名性〉って、何も支えてはくれない「川柳」のなかで、それでもどのような〈川柳的な偏差〉があらわれるのかっていうことに私は通じているように思うんですね。川柳を通して・私を超えてあらわれてしまう〈表現の偏差〉というか。
その〈偏差〉って、「蟻まみれ」になっている〈わたし〉を、いや、「蟻まみれ」になっている「転校生」を「都合よく」眺めている無名の〈わたし〉をどう考えるのかということにもつながっているように、おもう。
曼荼羅を虫が渡ってゆく速度 小池正博
宮崎駿『風立ちぬ』(2013)。この映画のラストで、戦闘機というか飛行機がつぶつぶみたいに小さくなってひしめいているシーンがあるんですが、私はこの映画のなかの飛行機の死ってそれなんじゃないかと思うんですね。飛行機の墓場で墜落し壊れている飛行機ではなくて。で、それって絵として飛行機が死ぬってことです。宮崎駿はこれまでたくさんの飛行機をそのつど作品において描いてきたけれど、そういった今までの描写の経験値れが封印されるくらい飛行機がつぶつぶになってしまう。それがこの映画のなかの、そしてこれまでの宮崎駿アニメにおける飛行機の死になっているんじゃないかと思うんです。最後、二郎は〈歩いて〉ますよね。地獄で。飛行機は絵として死んでしまったから、生きていくには歩くしかない。風にのって飛ぶのではなく、風に吹かれながらも歩くこと。それが『風立ちぬ』の最後にたどりついた場所なんじゃないかと思ったんです。
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